京阪電車の旧線を歩く(3)京阪池の跡地編 | 鉄道で行く旅

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「京阪電車の旧線を歩く」の続編です。最初に、少しだけ土居駅の歴史を説明した後で、今は消滅している「京阪池」についても触れてみたいと思います。

かなり改良されていますが、かつては京阪電車の戦前からのB線駅(土居~野江)の中で一番簡易な造りだった土居駅です。

 

土居駅の上りホームの下の築堤です。旧・守口~蒲生はコンクリート擁壁で囲う工法が原則でしたが、この土居駅は盛土のままです。

参考書籍によりますと、この場所は守口~蒲生間の高架工事に使う土砂の集積場(土砂置場)だったようです。

その当時、この場所の南東にあった京阪商業学校(その後は京阪商業高校→京阪高校→守口高校→芦間高校)が京阪側の新線計画にはなかった新駅の誘致を熱心に行った結果、京阪が築堤のような状態になっていた土砂置場に急造することにした駅(当初は仮駅)が、この土居駅だったようです。

ここで、小生は『ついでの餅に粉は要らぬ』という古い諺(ことわざ)のようなもの思い出してしまいました。(←これは、今の若い方には通じないようです)

 

【参考資料】当初の複々線化計画の図

新線の森小路駅は現在の千林駅です。新線の新森小路駅は現在の森小路駅です。蒲生駅は現在の京橋駅です。また、守口駅は現在の守口市駅です。野田橋駅は片町駅に改称した後、廃止(京橋駅片町口に統合)されています。

土居駅の開業日は野江(2代目)~滝井開業よりも後の1932年(昭和7年)6月14日でした。

 

土居駅の築堤の桜の木は、参考図書には「戦後に地元開業医の『奥田医師』が京阪の許しを得て植えたもの」と書いてありました。

その内容と同じことが、「大阪市(旭区)」の京阪の戦前の高架複々線化工事関係の資料では「土居駅のあまりにも殺風景な駅を見かねた近所に住む医者が桜の苗木を寄贈して土手に植えた」ということになっていました。

 

土居駅の下りホーム側の改札口です。

 

その下り側の改札口から南東方向の大枝公園に向かって、土居駅から斜めに道路が延びています。それが京阪の守口~蒲生間の高架複々線工事に用いる土砂を運搬した貨物列車の『土汽車(どきしゃ)』の軌道跡の道路です。高架複々線開業時にあった京阪商業学校の跡地は「守口市立さつき学園」になっています。「守口市立さつき学園」から先の大枝公園(京阪池)までの軌道跡は、今は住宅地になっており軌道跡の道路さえも残っていません。

ここを走っていた『土汽車』を牽引した蒸気機関車については、今のところ詳しい資料が見つからず、「民営鉄道の歴史がある景観III(平成11年・古今書院発行)」にも、目撃者の証言として「本格的な蒸気機関車が十数輌の貨車を牽引していた」と書いてある程度でした。さらに、図書館で閲覧した「守口市史」にも機関車の形式の記述はありませんでした。

↑【関連画像】高槻市の芥川の『土汽車』の橋脚跡

 

京阪の守口~蒲生の複々線工事期間は1927年(昭和2年)から1933年(平成8年)です。

この時代の鉄道建設では『土汽車(鉄道貨車のダンプカー)』の利用は珍しいものではなく、新京阪鉄道(阪急京都線の前身)や明姫電気鉄道(山陽電気鉄道の明石以西の区間の前身)の鉄道建設工事でも鉄道省払い下げの蒸気機関車が『土汽車(ダンプカー)』の牽引機として使われました。なお、日本におけるクルマのダンプトラック(道路を走るダンプカー)の工事利用は1953年の佐久間ダム建設工事のときが最初です。

【土汽車(どきしゃ)=ダンプカーの説明】

土汽車とは蒸気機関車などが牽引する土砂運搬用の鉄道貨車(ダンプカー)のことです。西洋では土砂運搬用の鉄道貨車をダンプカーと呼び、日本人が言うところのクルマのダンプカーは西洋ではダンプトラックです。

参考情報:当時は京阪の子会社だった新京阪鉄道(現在の阪急京都線)の『土汽車』牽引機の経歴です。

1927年(昭和2年):新京阪鉄道が同社路線(現在の阪急京都線)の建設用に鉄道省60形の60号と61号の2両を鉄道省から払い下げてもらった。(このときに元鉄道省60形蒸気機関車を軌間1,435mm用に改造したとあります)

1930年頃に60形は建設工事の用途がなくなり深夜の保線用車両になった。

1938年に60形を廃車にした。

この新京阪鉄道の60形蒸気機関車と京阪本線工事との関連性は不明です。ここでは、鉄道省の中古蒸気機関車が簡単に調達できたということを説明しました。

 

1932年の地図に、その「土汽車」の軌道跡が記されていました。この土居付近の「土汽車」は、土砂の採取場(現在の大枝公園=昔の京阪池)から現在の土居駅付近の土砂集積場までの路線でした。この地図には「(京阪)商業校」も記載されています。

 

その大枝公園まで歩きました。

 

今は、多目的競技場が整備されるなど、いろいろなスポーツができる健康づくりのための大きな公園になっています。

 

このグラウンドの奥側が「京阪池」という名の池だったところです。

守口~蒲生間の高架複々線の工事用の土を掘った跡が「京阪池」と呼ばれた池だったのです。

 

「大阪市(旭区)」の資料には、「必要な土砂は三郷村字高瀬(土居駅東600 メートル)の農地を買収、そこから土砂を採取した。そのため採取地には東西約250 メートル、南北約300 メートル、最深部10 メートルの大きな穴が空き、人工池が出現した。この池は「京阪池」(現在は大枝公園)と名付けられた。」と書いてありました。

京阪池は、その後は農業用の調整池として使われましたが1968年頃には農地が減っていたこともあり、池が埋め立てられて現在の大枝公園に変わっています。

 

地図から完全に消えてしまった京阪池ですが、「民営鉄道の歴史がある景観III(平成11年・古今書院発行)」に書いてあったとおり、今でも関西電力やNTT西日本などの電柱番号にその名を残しています。

↓それが、なかなか見つからなかったのですが、ようやく見つけたのが、下の画像です。

カタカナ表記の「ケイハン イケ」の電柱番号です。関西電力の電柱番号は『関電(関西電力の略称)』の社内ルールによりカタカナ表記になっています。私が最初に「ケイハン イケ」の文字を確認した場所は公園の東端の道路でした。

 

本来の京阪池よりも東の公園地です。この公園地の東側の道路で「ケイハン イケ」の電柱番号を見つけました。

 

その東側の道路の電柱の列です。

 

漢字で書かれた「京阪池」の電柱も見つかりました。カタカナ表記は関西電力の電柱番号ですが、漢字表記はNTT(NTT西日本)などの関西電力以外の電柱番号です。(下はNTTから電柱を借りている別法人なのか別系統の通信線だと思われます。下にある電柱番号は「公園」になっています)

画像のように複数の電柱番号が1つの電柱に取り付けられている場合は、上にある電柱番号が電柱所有者の電柱番号です。この場合はNTT西日本が所有する電柱なのでしょう。

【読者情報:NTT西日本の電柱番号にはカタカナ表記のものもあるそうです。NTTには漢字とカタカナの両方があり、関電はカタカナだけです】

 

NTT西日本の電柱番号と考えられる「京阪池」の電柱番号です。本数では「ケイハン イケ」と書かれた関西電力の電柱がほとんどでした。

ともかく「京阪池」の電柱番号が確認できたことで安堵してしまい、これで任務終了の判断をして帰途につきました。

京阪池跡の確認の帰りに、京阪電車の車内から見た千林から森小路駅方向の画像です。森小路駅が戦前の高架複々線の中では一番低い位置にあるため千林駅から下り勾配になっていることが分かります。森小路駅が低い位置にある理由は京阪にも資料がないようです。

京阪の資料ではありませんが、大阪市(旭区)の資料に森小路駅付近の高架が低い理由→この点については京阪電鉄に関する資料からは今のところ全く解明できる手掛かりがない。しかし京阪OBの人の話では将来この駅から梅田まで支線(地下線かもしれない)を造る案が一時期あったという。或いは事実かもしれない。」という京阪OBの話を交えた説明が載っています。この話もまた、現在の森小路駅の高架が低いこととは関係がなさそうです。←公開されている京阪電鉄関係の資料を私が再調査したところ、「京阪梅田線(資料では城東線廃線路一部払い下げによる計画線)」と呼ばれていたものは1919年に特許を得た段階から、すでに野江が起点でした。その後、京阪は野江からの延伸計画を取り下げて、1932年に京阪本線の蒲生駅を現在の京橋駅の場所に移転しています。この蒲生駅の移転は「道路拡張の邪魔になったので移転した」という説もありますが、京阪50年史「鉄路50年」の記載内容から「京阪梅田線の計画が消滅したために、乗客の京阪蒲生駅(現在の京阪京橋駅)と城東線京橋駅(現在の大阪環状線京橋駅)の間の乗り換えを便利にした」ものであることが分かりました。

大阪市(旭区)の資料に出ている「京阪OB」が語った森小路駅からの計画線は、旧線の森小路駅(新線の新森小路駅は全く関係しません)から分岐して毛馬方面(当時の大阪市電と連絡する場所)に向かうもので、これは城北支線と呼ばれていた計画線のことです。こちらは、1917年~1919年にかけて出願(計画の変更のため複数回出願)されたものであり、「京阪梅田線」とは別の話です。

この旧・森小路駅を起点とする城北支線計画は、京阪100年史によりますと「工事施行認可申請期限は1921年6月19日となったものの、工事施行認可の延期を重ね、結局実現にはいたらなかった。」と書いてあります。

また、一方の守口~蒲生間の複々線計画については「京阪電鉄では、単に直線化するだけでなく将来の輸送需要の増加を見込んだ対策として複々線化を計画し、線路変更区間を蒲生−守口間とするとともに、この路線の複々線への設計変更の認可申請書を1923年6月30日に提出した。これに対する認可書が1924年12月11日付で交付され、1927(昭和2)年1月13日から複々線工事に着手した。しかしながら、予定した新路線は農地であったために土地の排水が悪く工事が困難であった。また、完成した軌道の保守・安全管理の面でも不利であると考えられたため、高架とすることにした。そこで1928年4月26日に再々度、高架化のための変更申請書を申請し、同年12月24日に認可された」とありますので、旧森小路駅起点の計画は工事施行期限の1921年6月においても工事施行の申請が出されないまま事実上は立ち消えになっており、問題の新森小路駅を含む高架化工事計画の決定時期は、その立ち消えになった旧・森小路起点の工事施行期限の7年後の1928年だったのです。

以上の情報から「京阪梅田線」の計画と「当時の新森小路駅(現在の森小路駅)の高架が低い」こととは全く関連しないと言えます。

 

桜ノ宮線

桜ノ宮線

2016年7月の「関西鉄道桜ノ宮線跡を歩くの巻」の取材のときに網島駅跡付近を歩いたついでに訪問したJR大阪環状線の桜ノ宮駅付近にある「京阪電鉄乗越橋」です。これが『京阪梅田線』計画の夢の跡です。1932年8月に竣工しています。

城東線(大阪環状線の東部分の前身)の旧線を京阪が譲り受ける代わりに、京阪も城東線の工事を負担したことが資料に書かれていました。ここは京阪梅田線がアンダークロスで通り抜けることになっていた城東線の新線(現在の大阪環状線)の橋梁部分です。

桜ノ宮線

「関西鉄道桜ノ宮線跡を歩くの巻」のときの網島駅(網島線→桜ノ宮線→廃止)付近の地図です。今の大阪環状線は城東線でした。

 

さて、一旦は、『ともかく「京阪池」の電柱番号が確認できたことで安堵してしまい、これで任務終了の判断をして帰途につきました。』と書きました。

ところが、熱心に仕事をしていたときと全く同じことですが、帰宅した後、夜間の就寝中に、ふと「ケイハン イケの電柱番号は、あの公園の北側の道路沿いにもあるはずではないか!」という新たな考えがひらめきました。

ということで、まだ予定が入っていない2日後に再び「京阪池」跡の現地に確認のために向かうことにしました。

(つづく)