南海和歌山港線(後編) | 鉄道で行く旅

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2002年に廃止された和歌山市駅から水軒駅跡までの区間を歩きます。
和歌山港線

和歌山港駅の駅舎です。鉄道と船の連絡客がほとんどですので、乗船客は、この階段は使わずに、奥の連絡通路を利用します。1956年の和歌山港線の初期開業区間は500m手前の旧和歌山港駅(改名後の築港町駅<駅が廃止されたため現存せず>)までで、現在の和歌山港および水軒までの延伸は1971年のことでした。
参考までに、私は徳島航路には高速船に2回、フェリーにも2回乗船しています。


和歌山港線

和歌山港駅の駅前から見た、折り返しの難波行「特急サザン」です。

和歌山港線

和歌山港線の廃線区間の高架線です。ここは花王和歌山工場の北側の門のようなところです。

和歌山港線

2002年に廃止された高架区間です。

和歌山港線

高架区間が終わるところです。ここから南側は地平を走っていました。レールや枕木は撤去されていますが、軌道のバラスト(砕石)は、そのままでした。

和歌山港線

廃線跡にキロポストが残っていました。このキロポストは、この地点が難波から68kmのキロ程であることを、殊勝なことに、廃線後の今も示し続けているのです。

これを見て、昔、水軒駅の構内で70キロポストを見たことを思い出しました。

和歌山港線

バラストが残っている区間は花王和歌山工場の南側の門の手前で終わっています。この周辺の軌道跡の一部が花王和歌山工場に出入りする業者などのクルマの進入路と退出路に変わっていました。

和歌山港線

さらに南に進むと、水軒公園の看板が出ており、軌道跡を含む広い範囲の土地に多数の松の木が植樹されていました。

♪松の木ばかりが 松じゃない

和歌山港線

植樹のために軌道跡が埋められていました。架線柱の基礎部分だけが廃線跡を示しています。

 

この日の和歌山は猛暑日に近いような真夏日でした。

ところが、和歌山港駅で飲み物を買っておくことを忘れたまま、炎暑の中を歩いていたのです。
自販機
踏破区間が工業団地のようなところなので、自販機もなかなか見つかりませんでした。

歩いている途中で、ようやく、フジパン和歌山営業所の前で画像の自販機を見つけました。ここで「奥大山の天然水」を購入しています。

和歌山港線

道路の「水軒」交差点です。近くに和歌山木材港団地があるところです。和歌山港線の水軒延伸(1967年に着工・供用開始は1971年)は、木材の貨物輸送を予定しての延伸でした。ところが、水軒への延伸工事が完成したときには、すでに木材の陸運はトラック輸送が主流になっていたのです。


和歌山港線

現地で見た看板です。県が管理している土地ですが、実は県有地ではなくて国有地のようです。

県が運営していたので「県営の臨海鉄道」であることは間違いのない事実ですが、本当は国有地に敷かれた鉄道だったのですね。

和歌山港線

和歌山市から水軒駅跡までは2.6kmです。ようやく水軒川の河口が見えてきました。

南海は、戦前に和歌山市から和歌浦に至る鉄道敷設免許を取得していましたので、その計画どおりであれば、この先の和歌浦まで鉄道が繋がっていたことになります。

現実には、和歌山港線は和歌浦までの延伸はされず、戦後に和歌山県が公共事業として進めた臨港開発のために南海から和歌山県に鉄道敷設免許の一部が譲渡され、臨港線として認められた水軒までの区間が開通したのでした。

和歌山港線

昔の面影が全くありません。それでも、地理的には水軒駅と貨物ヤードの跡地の一部です。

和歌山港線
♪時世時節(ときよじせつ)は 変わろとままよ~


和歌山港線

1988年に訪問したときの水軒駅です。当初の計画では貨物輸送のための臨港線でしたが、大人の事情(?)なのか、形態としては泥縄式に旅客輸送だけを行う路線になっていました。

画像の左奥に木材が置かれています。この当時は、木材の保管場所だけがトラック輸送のために使われていたように記憶しています。

水軒の貨物ヤードは、結局のところ貨物営業に使われることがないままに終わり、南海の他の区間の貨物営業も1984年に全廃されました。


和歌山港線

水軒川です。28年ぶりの訪問でした。

和歌山港線
栗栖(くるす)バス停から和歌山市駅まで和歌山バスに乗車しました。もちろん3Dayチケットでの利用です。

和歌山港線
閑散とした和歌山市駅ビル(以前に高島屋が入っていた南海和歌山ビル)付近です。ビルの老朽化により、このビルは取り壊しが決まっています。その跡地には公共の図書館やスーパーマーケットなどの商業施設が入る新ビルが建てられる模様です。

(おわり)