コミュニティは求められているのか? | Work , Journey & Beautiful

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7月某日。僕は佐渡島のある集落に滞在していた。そこはきっといつかなくなるかもしれない集落。

でも、なくなることが必ずしも悪いことだなんて誰が決めたのだろうか?


個人が自由であることを目的としつつ、相互扶助によって成り立つ、経済的に自立したコミュニティのあり方。例えば、人事・組織領域の人たちの間ではTealなんていうコンセプトが話題になっているけれど、よくよくリサーチしてみるとこういったコミュニティのあり方は、21世紀的なものではなく、大正時代くらいから実験してきていて、メインストリームに乗ることなく今に至っていることを踏まえて、もっと批判的に分析すべき対象なんだろうなと思う。

 

コミュニケーションのインターフェースがface to faceからscreenへ、そして、さらに多様化していく中でコミュニティのあり方は、物理的な場的なものから概念的なものになっていっている。一方で、ソーシャル(関わり)からのイノベーション、コミュニティによるソリューションの重要性が高まってきている。だからこそつい新たなコミュニティのあり方を僕らは議論しがちだ。しかし、今、ここにきて、僕らはもっと歴史に学び、問い直した方がいい。僕らはコミュニティを必要としているのだろうか?必要なのはエコシステムであって、コミュニティは最早求められていないんじゃないだろうか?

 

そもそもコミュニティとは、本来そこに物理的には境界線も枠組みもないけれど意味的に形成された関わりの集合体。サークル、地区・学区、会社、商店、組合、委員会、国家、連合などコミュニティ単位の大きさは様々だ。そしてエコシステムというのは、有機的な関わりから形成される生産、再生、再生産されるシステムのことを意味している。

そして、エコシステムが求められていて、コミュニティは求められていないじゃないか?というのはどういうことかというと、基本的に、何かしらの価値は関わり(ソーシャル)から生まれてくるのだが、エコシステムにおいて、有機的な関わりが豊かになればなるほど(一人一人がよりさまざまな人、モノ、コトと有機的に繋がれば繋がるほど)、生産・再生が活性化していく。そんな中で、コミュニティは一体どんな役割を担いうるのか?ということにもっと批判的になった方がいいのではないか?と思っている。

本来、コミュニティは個人のソーシャルを形成し、維持する役割も担っていた。しかし、どうしても人はコミュニティに参加・従属すると、そのコミュニティを維持しよう、大事にしようとする傾向にある。これは今に始まった話ではなく、ホモ・サピエンスである僕らが進化していく中で僕らはずっとコミュニティとともに存在してきた、という歴史的な背景がある。しかしここにきて、これほどまでに遊動的な時代に突入した今、コミュニティは個人の足枷にすらなりつつあるのではないだろうか