遊動の時代における地域 × 教育。 | Work , Journey & Beautiful

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オルタナティブな学びを探求する


震災、原発事故から立ち直ろうとする南相馬という街の中で、これからの20年に想いを馳せながら、教育について考える二日間を終えて、東京へ。

 

ここで起きている問題は、日本の、世界の問題でもある。特に痛感したのはサイエンスと知性を普及することの重要性、予測不能な時代だからこそ実験的に自分がよいと思うことを積み重ねていく態度の重要性。


同時にここで芽吹き、育まれている可能性は、他の地域とつながり合うことで大きなうねりになるものでもある。色々なポテンシャルを感じ、エネルギーをもらいました。






さて、今回の旅のテーマは、地域 × 教育。

 

「×(かける)」なんていう表現を使ってしまうと、「地域における教育」なのか「地域に関わる人のための教育」なのか「地域のための教育(そんなものが成立しうるのか?とは思うが)」なのか分かりにくくなってしまうなぁ、と思う。

 

分かりにくい、ということの悪い面は、コンセンサスが取りにくくなったり、誤解を生みやすいことだろうか。反面、物事は悪い面あれば良い面もあると思っていて、その良い面の一例は、解釈の幅が拡がり、可能性が生まれやすいところだろうか。

 

さて、では、未来にとってポジティブな地域 × 教育の可能性とは一体なんなんだろう?という問いがずっと頭にあった。地域に密着するからこそ、あるいは、学校という教育の場を地域に開いていくことでこそ拡がる可能性はすでに色々と指摘されている。例えば、地域を題材にしたアクティブ・ラーニングなどはその最たる例だろうか。あるいは、地域全体で子どもたちを育てていくことにより包括的な支援やセーフティネットの構築が可能になることも大事だろう。

 

他には?そういう前から分かっていた可能性じゃなくて、もっと違う可能性はないのか?僕はなんのために地域に行くのか?

 

この問いを考える上で今回念頭にあったのが、故郷という概念をどう取り扱うか、だった。

 

僕が住んでいる浦安市の教育委員会が示す教育ビジョンにはその柱の一つとして「郷土愛」と書いている。これは何も浦安に限った話ではなくて、日本全国津々浦々様々なところで故郷・ふるさと・郷土への愛着心というものが重視されてきた。そして、地域×教育というテーマを考える際に、これまで主眼とされてきたのもこの郷土愛の醸成であったのではないか。

 

とはいえ、誤解を恐れずに書くと、僕はかれこれ15年居住している浦安に故郷という感覚を持ち合わせてはいない。そもそも故郷という言葉にリアリティを感じない。なお、愛着のある地域は日本中にいくつもある。奈良や浦安もその内の一つであり、今、プレイフル ストリートに取り組んでいる神田錦町もその内の一つで、それぞれに自分なりの意味があるとともに、重みはさほど変わら無い。そういう意味ではふるさとのある地元の人に対して僕はどこかに定住することを前提としない、流動の人、とでも言おうか。

 

どうもこの感覚は僕だけが持っているのではなく、少なくとも僕の周りには同じ感覚を持っている人が少なくない。つまるところ、かつてないほどに人が定住しない流動(遊動)の時代になり、今後もその傾向は加速するだろうということを前提とした時にみえてくる地域×教育の可能性はなんなんだろう?

 

そんな問いを持ちながら南相馬で活動する方々と様々な話をしている中でふと思いついたのは、「ユニークネス」だった。常々、地域に受け継がれ、根差す歴史的な文脈や伝統というものはユニークな何かを生み出すためのリソースだと思っている。自然豊かな環境というと日本全国津々浦々どこにだってある。「縄文時代から人が暮らし続け、数百年以上も同じ一族が藩主として統治し、未だにその文化が受け継がれ、現代においても殿様がいる環境」といえば南相馬という街のユニークさが際立つ。もちろん、歴史だけがリソースではない。僕らが今回出会ってきた人たちもまた、その街を象徴するリソースだ。もっといえば、2011年に起きた悲しい出来事も、そこから立ち上がり今にいたるまで地域で営まれてきたこともリソースだ。





 

そして、こういったリソースを活かしてユニークな価値をこの街にプロデュースできた時、様々な人が街の内外から集い、様々な出会いが生まれる。その出会いこそがそこに暮らす人やそこに関わる人を育てていくんじゃないだろうか。僕が今回、南相馬で話を聞かせてもらった様々な人との出会いで様々なことを学んだように。

 

流動の人として、形あるものか形のないものかにこだわらず、未来に向けてまだ見ぬ何かを色々な地域で芽吹かせていきたい。実験実験。