Neo Attitude,Neo Simultaneity | Work , Journey & Beautiful

Work , Journey & Beautiful

オルタナティブな学びを探求する

2017年の終わりに。2018年に向けて。

 

2017年の年末、一人で訪れた旅先の南阿蘇村で、ふと足を向けたカフェで出会った老人に、蔵を改造したギャラリーに案内され、僕は熊手のアートを鑑賞していた。

 

「今日松が届いたんだよ。日中はこいつを展示するのに使っちまった」と話す彼の話を聴きながら、今年はじめに見たアートはなんだったか?と思い返していた。記憶は定かではないが、覚えているのは表参道でAssembleの展示だった。

 

建築家集団であるAssembleは国際的に最も権威あるアート賞の一つであるイギリスのターナー賞の2015年の受賞者。建築家がターナー賞を受賞したのは初だったため、ノミネート時から話題になっていた。

 

Assembleが受賞したのは、リバプールの荒廃した住宅地、Granby 4 streetにおいて地域住民とのワークショップを通して再生するプロジェクトが評価されたからだった。人種的・民族的に多様な古い黒人コミュニティがあった荒廃した住宅地という<場>で、街の廃材(リソース)を再利用しながら地域の人達とともに価値を生み出す彼らの挑戦は、場の持つ経済的・社会的・文化的な可能性を指し示すものであり、とても刺激的な展示だったのを覚えている。

 

Assemble Group Photo 2014 ©Assemble

 

さて、12月6日に2017年のターナー賞の受賞者が決まった。ターナー賞は、その対象者をイギリス国内で活動するアーティストに限定したアート賞だが、2017年のノミネーター4名のうち3名は国外にルーツを持つ移民系のイギリス人、もう一人はEU出身と、奇しくも人種・民族分類コードに置ける「白人系英国人」が一人もいない年になった。イギリス国内ではEU離脱を前に移民を巡る議論が白熱している中、国民とは何か?文化とは誰が生み出すのか?を問いかけるような作品群とノミネートだった。

 

今年のターナー賞は、「50歳以下の若手アーティスト」という年齢制限が撤廃され、Lubaina Himidが受賞した。Himidは62歳なので、ターナー賞最年長受賞者となる。

 

Lubaina Himid © Tate, London [2017]

 

まだ注目されていない若手アーティストを発掘し、スポットライトを当てるターナー賞の本来的な意義が薄れてしまうのではないか?

せっかくのターナー賞が、すでに評価されている大御所を再評価する賞になってしまわないか?

 

何かと話題に事欠かないターナー賞であるが、今回は、Himidがノミネートされた時点で、このような批判が寄せられていたが、結果的にHimidが受賞した。

 

タンザニア出身のHimidは、1980年代に台頭したブリティッシュ・ブラック・アーツ・ムーブメントの中心人物で、近年、活動の再評価が急速に進んでいる。彼女はこれまで文化的に評価される機会の乏しかった黒人作家の才能を讃え、レイシズムやアフリカン・ディアスボラをテーマに活動をしている。

 

Lubaina Himid Naming the Money (2004) © Tate, London [2017]

 

ターナー賞において、これまで評価されてこなかった民族、コミュニティの価値を再定義する行為や表現が評価される一方で、現実の社会ではこれまで表舞台に立ってきた人達によるUnite(連合)が世界をよりよいものにする、というコンセプトが、あるいはユートピアに過ぎなかったのではないかと問題提議されたようにも見える一年だった気がする

 

ドナルド・トランプが大統領選を制しアメリカ・ファーストを打ち出したことは記憶に新しい。イギリスのEU脱退についても数ヶ月の交渉の上で合意に至るなど、いよいよ現実味を帯びてきている。日本国内では、国連が採択した持続可能な社会実現に向けた開発目標である「SDGs」を普及する団体の活動がにわかに増加したように見えるが、その土台となる連合にほころびが生まれてきているようにも見えた。これらが意味するものは何なのか?を考えざるを得ない一年だった。

 

Gridを越える態度=Neo Attitude

僕たちの社会は、極端に分かれすぎている。その根底にあるのは、合理化・効率化を目指す新自由主義だろう。国家、民族、組織、集落、立場、肩書き、そういった罫線=Gridで区切られたような社会に僕たちは暮らしている。

 

このようなGrid化した社会は僕たち一人ひとりを「彼は日本人の医者だ」「彼女はある過疎化が進む集落で子育てをしながらパートタイマーで働く2児の母親だ」とGridにわけて表現する。このように表現することは、それぞれがどのような人物であるかを分かりやすくするけれど、結果的にその人本来の姿や個性を隠していく。

 

本来の僕たち人間が生み出す社会は、このようなGridでは分け隔てられることのない、もっとGradationなものだ。であるにも関わらず、その人本来の姿や個性を、分かりやすい枠組みでとらえ直した結果、ある一定の人が抱えている苦しみや困難に鈍感になっていった。

 

 

Broadway boogie woogie ©︎ Piet Mondrian

(モンドリアンに代表される極限までにシンプル化されたグリッド状のアート作品は、20世紀前半にアートの世界を席巻した)

 

Himidが光を当てる黒人作家やアフリカン・ディアスボラ、Assembleが可能性を見出した黒人コミュニティなど、社会的に生み出されたGridの間に閉じ込められ、経済的・社会的・文化的に抹殺されてきた。その反動がトランプのアメリカ・ファーストを支持し、イギリスのEU脱退を支持し、移民排除を支持する流れになり、世界各国でテロを生み出している。都市の合理化・効率化が進む中で、地域コミュニティは人口減少の一路を辿り、かつては相互補完の関係にあったコミュニティ機能が失われ、生活の維持が困難になりつつある。

 

ただ、地球の持続可能性というマクロな視点で見ても、地域コミュニティの持続可能性というミクロな視点で見ても、この反動の先に明るい未来が待ち構えている訳ではないことは明らかだ。たとえなんであれ、そこかしこに分散しているリソースは有限であり、それらをうまく活用していくことでしか、持続可能な社会は実現できない。

 

しかしながら、Gridを越えて、持続可能な社会を実現していくためには従来のコンセプト=Unite(連合)は、力を持ち得ないのかもしれない。これらのコンセプトは、自分がどのようなコミュニティ(それは時に専門性や肩書きすらコミュニティにもなりうる)に属しているかを明らかにしつつ、組織を代表して相手と連携することを意味する。そのような、此方側と其方側という<分け隔てる態度(Attitude)>で相手と接する関係の中では、双方の間にGridが生まれがちだからだ。

 

では、一体何が重要なのか?それは、上記のようなお互いを枠組みで捉えて接する態度(Attitude)を改めることではないか。枠組みがこれまで個々人の態度を創り上げてきたのであれば、これから求められる、Neo Attitudeとも言える態度とは、自身をコミュニティで語らず、相手をコミュニティで判別せず、一人一人を本来の在り方通りに捉え、丁寧にお互いがGradationな社会を形成している存在であると捉えるような態度であり、合理化・効率化の過程で分け隔ててしまっていた個人を枠組みから解放し、改めて混ぜ合わせていくような態度なのではないか。そして、そういったNeo Attitudeを養うこと、それこそがこれからの教育のあり方なのではないだろうか。

 

思想のないアクティブ・ラーニングが世界のGridをより強固にする

 

昨今、アクティブ・ラーニングという名の下に、教えない・カリキュラムがない教育が一斉教育へのアンチテーゼとして国内で台頭してきている。これらの教育手法そのものは頭ごなしに批判されるものではないが、問題はその背景にある思想だ。これらアクティブ・ラーニングは2020年の受験対策や非認知スキルの向上につながるとされているが、これら非認知スキルを伸ばすべし、とする主張は「全てのものは経済的な価値で測ることができる」という考え方によって、しばしば支持される。(生涯年収や経済的な成功につながる、と)

 

「こういう学ばせ方をすることで、こういった能力が身につく」という枠組みで教育を捉えている以上、学び手(あるいはその親)はカスタマーであり、教育者はサービスのプロバイダーという態度(Attitude)を生み出す。教育にすら、カスタマーという態度(Attitude)で接するようになった個人が、社会に出て、その態度をアンラーンすることは容易なことではない。

 

「いかなる抵抗をも抑圧し得る賢い方法は、議論の範囲を制限し、その中で活気ある議論を奨励することだ」とノーム・チョムスキーは述べているが、この構図の中で教える・教えないの優劣を競っている限り、経済的な価値で物事を測る価値観が一層強まる。

 

言うまでもないが、人の学びや成長は経済的な価値だけで測られるものではない。にもかかわらず、今の教えない・カリキュラムがない教育を支持する流れは、この根本的な教育の目的を論じることなく、(経済的な価値で物事を測る既存の枠組みの中で)どちらの教育手法がよいか?を議論しがちだし、また、その既存の枠組みにとらわれていることにすら無自覚であることもある。

 

思想なきアクティブ・ラーニングは子供たちを授業中の居眠りからは解放するかもしれないが、世界を閉塞感から解放することにはならないかもしれない。

 

 

Neo Attitudeを養うアプローチとしてのPlayful

少し話は変わるが、個人的に2017年に印象深かった出来事の一つといえば、僕の周辺で、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』が再評価されたことだろう。

 

ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』を発表したのは1938年。当時、世界は第二次世界大戦を目前に控え、ナチズムへの危機感が高まってきた時代にホイジンガは遊びの中から文化が生まれるのだ。(当時、ホイジンガは国際連盟の副議長を務めていた)

 

ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』を発表したのは1958年。欧米を中心に経済が急速に発達する一方、朝鮮戦争以降の東西分離、宇宙開発競争を目前に世界的な緊張感が高まる中、カイヨワは『遊びと人間』を発表した。

 

ホイジンガとカイヨワがともに遊びに注目をしたことが共通しているのはタイトルの通りだが、ともに世界的な対立構造が深まり、緊張感が高まった時代に『遊び』に注目したことも共通している。

 

それぞれの時代背景と現代との間に何か共通点があるとするならば、世界的な緊張感の高まりであり、その緊張感を世界の分離と対立が生み出していることだろう。一方で、現代とかつての時代との違いがあるとするならば、かつてのナチズムと西欧世界、東と西といった明確なイデオロギーによる分離が生まれていた状況とは異なり、現代では隔たりが多様化・複雑化しかつてのようなイデオロギーと地政学的な分離が起きている訳ではない、ということだろうか。

 

そんな中で、僕らがGridに対抗する術の一つが「場の同時性」であり、Playfulというコンセプトだ。ホイジンガは「遊びはものを結びつけ、また解き放つ」と言う。複雑に分離が進んだ世界の対立を埋めうるものとして、ホイジンガやカイヨワが理論として提唱した「遊び」を、今、僕たちはPlayfulと言うコンセプトの名の下に、場の中に遊びを生み出し、これまでに繋がり合うことのなかった人たちを混ぜて、結びつけ、遊びの中で学びを生み出すことで、Gridを越えようと取り組んでいる。

 

Baltic Street Adventure Playground ©Assemble

 

 

 

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PlayfulStreet

 

遊びの中から、いかにNeo Attitudeを生み出すか?この命題への解は未だ理論に過ぎず、社会に実装されたとは言い難いが、その方法論はこれから多くの試行の先に確立されていくのだろうと思う。

 

勿論、遊び/PlayfulというコンセプトだけがGridを越えるわけではない。

 

「持続可能な社会を実現するための検討の場」や「地域コミュニティの未来を考える場」には、元々それらのことに関心があり、すでに同列に捉えられている人だけしか集まらなくなっている。遊び/Playfulというコンセプトは、特定の場に、これまで並列的に扱われることのなかったものを混ぜ合わせて配置する=場の同時性(Simultaneity)を生み出すための一つのアプローチに過ぎない。

 

 

Neo Attitude,Neo Simultaneity

他方で、僕がこれから取り組むことは、場の同時性のみがGridを越える方法なのか?という問いに対して、具体的な形としての表現を通して模索していくことだろう。

 

ミテモでともに働いているアーティストと話をしていて、Comtemporary Artという言葉が、本来的な意味としての「現代アート」という意味から、「同時性を切り取り再評価し、表現する手法」としての一ジャンルになろうとしている、という話を聞かせてもらった。かつてModern Artという言葉がいつしか一ジャンルを表す言葉となったように。

 

その変化を生み出そうとしているのは、データなのかもしれない。かつてから、歴史はその<歴史を解釈する現代>が創り出すものだった。しかし、あらゆるものがデータ化され、アーカイブされていけば、同時性の価値は相対的に低下していくのだろう。

 

そんな時代の変遷にあるからこそ、同じ空間・同じ時に異質な人を集合させることによって、コミュニティを再構築し、学びを生み出すということそのものへも問いを投げかけていきたい。場とは、地理的なものにとどまらないのではないか?時間軸という概念を越えて、僕らは有限かつ有益なリソースにアクセスすることでよりよい社会を生み出しうるのではないか?

 

そうやって生み出されるものは、従来の教育とは似ても似つかぬ行為・活動になるやもしれない。いや、むしろ、「これが教育なのか?」と批判されるようなものをつくらねば、問いを投げかけるものにもならないだろう。

 

さて、有限かつ有益なリソースへのアクセスという概念をGoogleに先駆けて社会に実装したものといえばWhole Earth Catalogだろう。2018年は、Stewart BrandらによってWhole Earth Catalogが創刊されてからちょうど40年が経つ。

 

伝説とも言われるこのカタログの目的とは「読者を消費に向かって駆り立てるためのものではなく、人類が地球という惑星の上でヒトとして自立して生きるための手がかりを提供しようとする」ものだった。Brandらはaccess to toolsというスローガンを掲げ、それら手がかりとなる概念や道具をToolsとしてカタログにまとめていった。

 

©WHOLE EARTH CATALOG

 

「Whole Earth Catalogはインターネットが生まれる前のGoogleのようなものだった」そう言ったのはこのカタログの愛読者であったというSteve Jobsだ。

 

このカタログには、あらゆるものが掲載されているが、勿論全てのものが掲載されているわけではなく、以下のような4つの選定基準を設け、フィルタリングされていた。

 

(1) Useful as a tool,(役に立つ道具である)

(2) Relevant to independent education,(自立教育に関係がある)

(3) High quality or low cost,(ハイクオリティー、もしくはローコストである)

(4) Easily available by mail.(メールで簡単に手に入る)

 

この選定基準は当時の時代背景から見て極めて前衛的なものだった。インターネットすらなかった時代に、世界中から全てのものを通販で手に入れるようにしていた、ということからいかにこのカタログが前衛的だったが伝わるだろうか。さて、これを現代風に置き換えると、どのようになるのだろうか?

 

行為(遊び)の中から思想(理想)を生み出し、思想(理想)を具体化するために行為(遊び)を重ねていく

2017年を迎えた当時、今、僕が取組むことになる活動の思想(理想)は、一端しか見えていなかった。

2016-2017の年末年始の記事:遊びの中で繋ぐ人。遊びの中から紡ぐ場。

 

遊びの場を生み出そう、その中で、これまでに繋がり合えなかった人、考え方をつなぐことの中から、これまでにない学びを生み出そうと決めたのが2017年の年始。その後、心の赴くまま、「面白い」と思うことに取組む中で、様々な人、考え方と出会い、自身がとらわれてきた枠組みから解放されていった。まさに、ホイジンガの言うように遊びの中で、結びつき、解放された結果として、思想(理想)が紡ぎ出されていった、そんな一年間だった。

 

生み出された思想(理想)を一つ一つ、具体的な行為(遊び)にしていこう。その行為(遊び)の中で、また新たな人と考え方と出会い、さらに思想(理想)を生み出す、2018年はきっとそんな一年になる。

 

「自分の命は常にふるいにかけられている」

 

ふとした時に出会ったこの言葉を胸に止めつつ、何かを創るように遊び、遊ぶように暮らし、暮らすように創る日々を生きる。

 

2017年も大変お世話になりました。

皆様の2018年が素晴らしい一年となりますように。