教えられること、教えられないこと。 | Work , Journey & Beautiful

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オルタナティブな学びを探求する

世の中には教えられることと教えられないことがある。

まず、教えられることについて考えてみよう。化学物質の種類、各国の歴史、仕事をする上で知っておくべき法律などのような「知識」はおしえられる。システムの使い方、料理の仕方、お客様をおもてなしする際のお茶のいれ方など「手順」も教えることができる。この他にも、うまいプレゼンテーションの仕方、問題を解決する際の基本的な考え方、ミスを起こす可能性が下がる仕事の進め方などのような「技術」も教えることができる。
※この場合の「教える」という行為は、説明し、実践してみて、フィードバックをするという一連のインストラクションを想定している

これに対して、教えられないこととはどのようなものがあるだろうか?先の例でいうとお客様をおもてなしする際のお茶のいれ方については教えられるかもしれないが、そもそものおもてなしの気持ちを持つことを教えられるだろうか?おもてなしの気持ちを持つことの重要性は説くことができる。中には、その言葉で、ハッと気付く人もいるだろう。しかし、そのような人を除くと、このような「姿勢」を教えることは難しい。この他にも、働くことの喜びや楽しさ、生きる上での情熱、他人のせいにすることのないオーナーシップ、こういった「意欲」「価値観」なども他者が教えることで身につけさせることが難しいことの一例だろう。

前者と後者の違いはなんだろう?学び手の視点に立ってみると、その違いが見えてくる。

前者(教えることができること)を学ぶということは、誰かがすでに体系化されたこと(知識、手順、技術など)を取り入れるという行為にあたる。体系化されている、ということは、知識であれば、どのようなことが理解できていれば十分であるのか、どのように解釈されるべきなのか、が明確になっている、ということだ。つまり、十分・不十分、(その時点の教え手と学び手とにとっての)正解・不正解が明確化されている。よって、学び手は知識、手順、技術を学び、時にテストに答え、時に実践しながら教え手からフィードバックを受けることで着実に学ぶことができる。

後者は、およそ体系化されにくいものだ。とりわけ、例にあげたような働くことの喜び(楽しさ)、生きる上での情熱などは人によってその内容が全然異なる。人の数だけ、答えがある。また、人によってその答えも一つではない。つまり、どこかの誰かが体系化したものを探し、取り入れることはできない。学び手自身が、何かを体験したり、誰かと対話したりする相互作用の中から、自ら見出したり構築する必要がある。

このような分類をするとき、いくつかのことを誤解しがちだ。まず、一つ目の誤解は、「前者は第三者として学びに関与できるけれど、後者は学びに関与できず本人次第である」というものだ。そんなことは決してなく、それぞれの領域ごとに適切な関わり方がある。学びを促進する関わり方をラーニング・ファシリテーションと言ったりするが、「教えるラーニング・ファシリテーション」と「教えないラーニング・ファシリテーション」とがある。

二つ目の誤解は、「前者よりも後者の方が重要だ」というものだ。とりわけ、21世紀は答えのない不確実な時代だからこそ物事を探求する力を身につけるべきだという考えが、時折この誤解を生み出す。確かに、技術革新や情報流通の速度がかつての比ではなくなった時代において体系化されたことを学ぶことにのみ慣れることはリスクでしかない。しかし、少なくとも今日、成果をあげている組織、集団、個人がかつて常識と思われたことを全く無視しているのかというとそんなことはない。例えば、変化に適応し学び続けるためには「何かしら行動をする際に、事態を観察し、情報を収集し、予測した上で行動を起こし、環境に働きかけ、その反応から学ぶ」という行動パターンが欠かせないが、これは過去も現在も変わらない。例えば、仕事を進める上で、出来上がったら即提出するのではなく、一旦ダブルチェックをすることで仕事のミスや出戻りを減らすという仕事の基本的な段取りも過去から変わらず現代においても重要だ。そして、これらの体系化された知識は先人たちの数多くの失敗によって培われたものであり、学ばずに日々を生きるのはあまりにもったいない。時代によらず普遍的なことがあり、教え手はそれら普遍的なこととは何なのかを見極めることが必要になってきているのであって、それらを教えることの重要さは決して低くなったわけではないだろう。

三つ目の誤解は、「前者の方が後者よりも容易である」というものだ。確かに、後者の教えないファシリテーションは容易ではない。個々の考え方に向き合い、学び手自身の内面に意味が構成されるのを支援することは、すぐさま誰にでもできるわけではない。しかし、前者の教える、という行為も、「何を教えるべきか?」を見極めることが求められるだけでなく、体系的かつ学び手が学びやすいように支援することもまた容易ではない。話がうまい先生・講師は多いが、話が上手いということと学びを支援することに長けているということはイコールではない。体系化されている知識を教え、学びを支援する「教えるラーニング・ファシリテーション」を体系的に捉え、かつ、効果的に実践できている人は、残念ながら多くはない。