ハロヲタ~駆け抜けた日々~ 第7章:アイドルブーム到来と意識の変化 | 元ダメ院生の旅と生涯教育ブログ

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前回は「ハロヲタ~駆け抜けた日々~ 第6章:偶像から身近へ(ハロプロ・ナイスガール・ご当地アイドル)」です。


東日本大震災から1年が経った2012(平成24)年、私はようやく仕事が慣れ始めた頃だった。

医療事務という仕事は当初、リーマンショックの影響で就職難に直面してしまい、そこしか選択肢がなかったものと考えていたが、東日本大震災を経験し、多少は自覚を持てるようにはなっていた。

しかしそれ以上に私を変えたことは、リアルな恋愛であった。
職場に好きな人が、たとえ片想いでもいるということは、日々の業務が楽しく感じることでもあった。

極上!めちゃモテ委員長を毎週視聴することで、そのような感情が出てきたのも事実ではあるが、
単純に身近な人を好きになってしまっていたのかもしれない。
なぜか毎日のようにBuono!の「カタオモイ」を聞いていた。
そのような恋愛感情という自分の感情が自分の中でわからず、ハロプロの歌でしか表現できなかったのかも知れない…

余談ではあるが、その方は鞘師里保さんに似ていた。
鞘師ちゃんのグッズなどはどうも直視できない時期があった…(笑


それは今までのアイドルヲタから意識が変化していくきっかけにもなっていった。
これまでは大学院の学術書と実用書、それとアイドル雑誌くらいしか読まなかった私が、
ファッション雑誌や流行スポットの雑誌などを読むようになっていった。

流行にさえ敏感になり、長らく機能性を重視してガラケーしか使用しなかった私だったが、
この年から普及し始めたスマートフォンにすぐに機種変更していた。

これまでの自己満足の世界観からも変わっていったのかも知れなかった。



ハロプロでは2010(平成22)年以降、2009年に結成されたスマイレージ(現在のアンジュルム)の人気が急上昇していた。

各地でイベントが多く開催され、℃-uteとのコンサートツアー、さらに単独でのコンサートツアー開催されるなど順調にファンを増やしていた。
CDのリリースも集中していた。「夢見る15歳」には今でも社会人一年目を思い出させる一曲である。

 

その後も「○○がんばらなくてもええねんで!!」「同じ時給で働く友達の美人ママ」とリリースが続いた。

最初自分には、どこか大人びた歌詞が耳に残っていた。
1stアルバムの「悪ガキッ①」というタイトルには、やはりそうだったのかと合点がいくように感じた。
しかし自分もやがてこの歌詞に共感してくる。その時には、ようやく精神年齢が恋愛に憧れる年頃の女子に追い付いたのか…遅かったか…
と感じることの方が大きかった。

「悪ガキッ①」は2010年12月に参戦した光が丘でのイベントで購入した。


2011(平成23)年に発売された「有頂天LOVE」はヒット曲になった。
初めてこの歌を聞いた時、今の自分の恋愛感情を表現されているような気がしていた。
その後の「タチアガール」には、震災からの復興ソングのようでもあり、私もまた応援されるように感じていた。

しかし、スマイレージは2011年以降、メンバーの脱退や卒業が相次いだ。
2011年8月にサブメンバーとして、中西香菜さん、小数賀芙由香さん、竹内朱莉さん、勝田里奈さん、田村芽実さんが加入するが、
8月27日には、小川紗季が卒業した。
突然の卒業は、当時おはガールとして出演していたテレビ東京の「おはスタ」で、転校しますとして放送されたことを今でも記憶している。

芸能界では島田紳助さんが突然芸能界引退を表明した時期であったが、さきちぃの卒業は私にはそれ以上に衝撃的だった。

さらに9月には小数賀芙由香さん体調不良のため脱退し、年末にはエースと評されていた前田憂佳さんが卒業してしまう。

10月にはサブメンバーが正規メンバーに昇格するものの、スマイレージメンバーの卒業や脱退には目まぐるしく感じていた。

その後、スマイレージは「アンジュルム」に改名した。
私にとっては医療事務として働いていたころを懐かしむハロプロのグループではあるものの、
あまりの展開の速さに、ナイスガールプロジェクトを推すことで、どこか安心感を得ていたと感じていた。



2007(平成19)年4月1日のBerryz工房のさいたまスーパーアリーナライブから5年が経とうとしていた2012(平成29)年。
この年の4月1日は日曜日であった。

ベリキューは、前年の2011年にリリースされた「甘酸っぱい春にサクラサク」が、私の中での一つの節目と思っていたが、

2012年の3月にリリースされた「Be 元気<成せば成るっ!>」が、これまでになく良い曲と思い、ツアー「Berryz工房コンサートツアー2012春~ベリーズステーション~」に期待は高まっていた。

 

また、2月にリリースされた、Berryz工房の8枚目のアルバム「愛のアルバム⑧」の収録曲、「世の中薔薇色」も良い曲と感じていた。

リーマンショック、あるいはそれ以前から長く続いていた不況、それに東日本大震災。少なくとも薔薇色とは程遠い世の中だった当時。

そんな中でもこの曲を聞くと自然と元気が出る気がしていた。

この曲のリリース辺りを境に日本は、やや経済も回復傾向になってきた。

私の中で、復興と景気回復、ハロプロの元気の出る歌は今もこの曲である。

 


Berryz工房のさいたまスーパーアリーナライブからちょうど5年目となる、2012(平成24)年4月1日、

ハロプロファン有志で作るクラブイベント、「ハロプロナイト」の札幌での開催が決定する。
この4月1日の札幌ハロプロナイトが、私にとっての一つの節目になると感じていた。
すでに自分の中で意識は変化して、ハロプロを熱烈に追いかけることよりも、よりリアルな恋愛にシフトしていたのである。


北海道は私にとって、大学院時代の思い出深い土地であった。
夏休みや春休みにはよく旅していたし、北海道の鉄道や自然に大変魅力を感じていた。
その旅の途中、聞いていたのはBerryz工房や℃-ute、Buono!の歌だった。

Berryz工房の「サクラハラクサ」や「ジンギスカン」は鉄道で北海道に向かう途中の新幹線や青函トンネルが思い出される。
「愛のスキスキ指数上昇中」には札幌から稚内に向かうサロベツ原野の雪原が思い出され、
Buono!の「星の羊たち」や「君がいれば」には、十勝平野の雄大な風景や、かつて廃止された旧広尾線の景色が鮮やかに目に浮かぶ。
℃-uteの「都会っ子 純情」は雪が降る札幌の市街地を思い出すようである。

それほどにハロプロ楽曲と北海道は私の思い出であった。


ハロプロナイトは、ファン有志で開催されているハロプロオンリーのクラブイベントである。
http://helloprojectnight.blog37.fc2.com/
私はmixiのコミュニティで知り、大学生の頃からたびたび参加している。
クラブハウスや小規模なライブ会場を貸し切って開催されるが、クラブの高揚感とハロプロ楽曲から生み出される空間は、非常に楽しいものがある。
参加する方もほぼ全員がハロプロファンであり、安心して参加することができるのも特徴的である。
オリジナルカクテルなど趣向を凝らしたサービスがあり、音楽以外も楽しめるイベントである。


3月には「THE ポッシボー 単独ライブ2012 幸せの証」に参戦する。
この時、THEポッシボーは(チャオベッラチンクエッティへの改名を待たず)、メンバーの秋山ゆりかさんの卒業をもって解散を真剣に検討していたと明かされた。
解散の危機を乗り越えたTHEポッシボーが、たくましく一段と輝いて見えた瞬間だった。

さらにピンキッシュの埼玉県志木市でのイベント「水辺再生100プラン合同完成イベント」に参戦した。


そして4月1日、思い出の聖地であるさいたまスーパーアリーナから、新幹線と特急で札幌へ向かった。
大学院卒業の2009年以来となる、札幌ハロプロナイトに参戦した。

会場はあの日と同じ場所だったが、新旧のハロプロ楽曲と、アルコール度が強いため
寒冷地である札幌での開催時しか販売されないテキーラベースのオリジナルカクテルが、懐かしく楽しく美味しく感じた。
ミラーボールに映るハロプロPVと、かかり続ける音楽が、駆け抜けてきたハロヲタとしての人生を鮮やかに思い出させるようだった。

翌日のは、札幌から旭川、そして帯広を巡り、帯広空港から埼玉に帰った。

その後は、渋谷公会堂での「Berryz工房コンサートツアー2012春~ベリーズステーション~」、
サンシティ越谷市民ホールでの「℃-uteコンサートツアー2012春夏~美しくってごめんね~」に参戦した。
5月には、東京・TOKYO FM HALLでの「アップアップガールズ(仮)第27回公演~佐保明梨加入ジャスト1周年記念SP~」に参戦した。

ハロプロナイトは東京での開催もそれから多く参加した。
ハロプロナイトでは多くの楽曲を知り、ダンスを覚えることができた。
モーニング娘の「Only you」「リゾナントブルー」などは、コンサートではなくナイトイベントで完全に覚えたものであるし、
スマイレージの「好きよ、純情反抗期」は、ほとんどリリースと同時にハロプロナイトでダンスを覚えていた。
今後もぜひ参加していきたいと考えている。



ファン有志のイベントとしては、大学の学園祭で開かれる「爆音娘。」にも毎年参加していた。

慶應義塾大学では「モーニング娘。研究会」が主催する「三田爆音」が、学園祭「三田際」で毎年開催されている。
「モー研」と言われるモーニング娘。研究会は、設立当初はテレビでも紹介されたほど話題となった。

そのモ―研が主催する、三田祭での「三田爆音」は、大学4年の頃から毎年参加している。
大学祭のお祭りの雰囲気と、普段勉強で使う教室で踊るハロプロのダンスは、毎年私にとっての日々のダンスの練習の場となっている。

早稲田大学でも2007(平成19)年から、早稲田祭で「早稲田爆音」が開催されている。

早稲田祭は学園祭としては日本一の規模であり、慶応大の三田祭よりもさらにお祭り感が高い。
そこで流れるハロプロの歌とダンスは、単に高まるという感覚を超え、学問を究めるという意識さえも高めてくれるものと感じていた。


こファンの結束力や一致した価値観こそが、ハロプロの何よりの特徴であったようにも思う。
しかし次第に、アイドルが一般化された娯楽となっていく。
それは他ならぬ「AKB48」の台頭であった。

やがて、そのような独特な世界観も戦略的に広報され、ひとつのブームとなっていく。
CDを多く売るために、握手会の参加券を付け、買うごとに長い時間握手できるということ、
グループ内で自分の応援するアイドル、いわゆる「推しメン」を公式サイトで登録し、優先的に応援できるということ、
ハロヲタが有志で作っていたアイドル文化は、AKB48では戦略的な商法として普及していくことになっていった。

今までハロヲタしかわからなかったような独特の用語さえ、普通に多くの人に通じるようになっていた時には、時代の変化を感じた。


ハロヲタは最初、その時代の変化に戸惑い、AKB48と対峙していたようであった。
私自身もAKB48の初期の頃は、完全にハロプロの方が勝っていると感じていた。

2009(平成21)年に、渡り廊下走り隊の「完璧ぐ~のね」とBerryz工房の「流星ボーイ」が同じ時にリリースされ、速報でBerryz工房の方が売り上げで勝っていた時は、
ベリヲタでないハロヲタからも称賛の声が聞かれ、その時は正直戸惑ったりした。
そして2011(平成23)年に「ブスにならない哲学」がリリースされ、そのイベント集客が1万人を超えた時には、
「ハロプロはAKBには負けない!」という声が、当時は出始めで震災の時に注目されたツイッターでさかんに聞かれていた。

振り返れば当時は、ハロヲタとAKBヲタは兼任できないような関係が続いていたようにも感じていた。


しかし同年に、指原莉乃さんが開催し、NHKでも中継された「ゆび祭り」にBuono!を招き、自身もハロプロファンでハロプロに憧れて芸能界に入ったことを話すと、次第にハロプロとAKBの融和は進んでいった。
それからハロプロはAKBメンバーとの共演も多く見られるようになっていった。

そしてその頃から、日本のアイドルブームは進化していく。
それはAKB48グループがけん引し、ハロプロがモデルとノウハウを作って努力の課程を魅力的なものにしていった。

高速インターネット通信とスマートフォンが普及し、動画サイトやSNSでは、誰もが手軽に発信できるようになった。
それは「地下アイドル」という新たなアイドルの形を生み出したのである。

アイドルという娯楽が広く一般的になり、今までのようなステレオタイプのオタク趣味からの変化の兆しでもあった。
アイドルのファン層は、若い女性にも普及していくことになる。
そのことは自分の中で、さらに意識が変化していく要因にもなったものであった。


8月にお台場で開催された「TOKYO IDOL FESTIVAL 2012」に参戦した。
私は小川真奈さんやピンキッシュなどを見ていたが、多くのアイドルのステージが同時開催していることに、
アイドルは確実にブームとなったことを実感したのである。


8月末、私は夏休みを利用して、大阪からフェリーで中国に旅行した。
上海までは2泊3日。上海フェリー「蘇州号」は、海が見られるラウンジやレストラン、免税店などが完備したシティホテルのような客船であった。


2日目には東シナ海の景色を眺めながら、Berryz工房がリリースした、タイの歌のカバー「cha cha SING」を聞いていた。

 

景色は、見渡す限りの海、水平線、そして空しかない。

この海の先に中国があり、インドシナがあり、タイがある。

「cha cha sing」を聞くと、異国に馳せたあの時の思い出が今もよみがえってくるのである。

 

上海に到着後は、中国高速鉄道で蘇州に向かった。
蘇州は長江の南側にあり、太湖の東岸に位置する。都市である。
運河と水郷の景色がきれいで、環状の堀で囲まれた旧市街は世界遺産の園林や、昔ながらの中国風の住宅が点在していた。
新市街は近代的なビルが立ち並び、郊外には工場地帯が点在する街だった。

帰りは上海から飛行機で成田へ。
翌週末には、新東京国立劇場での小川真奈の出演するライブ「MUSIC ENERGY 2012」へ参戦した。


キャナァーリ倶楽部のおがまなは、この頃から小川真奈としてソロで活躍していた。
ナイスガールの中でも歌唱力に定評があった彼女の歌はソロでさらに開花していた。

前年の小川真奈1stソロLIVE「おがわーるどVol.1~マナイスミュージックライブ!!~」.渋谷LOOP annex

表題作の「ティーネイジ ブルース」の他、アニメ「ヒャッコ」のオープニングテーマだった「スッピンロック」、
「ジェラシーというかなんというか」、「MAP~未来の地図~」には彼女の高い歌唱力が見事に表現されていた。
極上!めちゃモテ委員長のテーマソング「元気になれ!」をアニメのキャラクター北神未海ではなく、小川真奈として歌った時は、
私もまたアイドルではない身近な本物の女性を好きになってもいいんだというメッセージをもらった気がしていた。

ナイスガールプロジェクトは、前年にキャナァーリ倶楽部の活動が実質的に終了して以降、目立った活動は少なくなっていった。

当時は仕事の勤務曜日が不規則となり、なかなか休めなかったことは少し惜しく感じるところである。


ピンキッシュやPieaceもライブ現場には多く参加できていた。
9月、10月には埼玉のイオン入間店のライブ、「コープフェスタ2012」ではさいたま新都心のけやきひろばに向かった。

また、Pieaceは毎年のように埼玉県嵐山町での嵐山桜祭りや嵐山夏祭りに参戦した。
Pieaceは今も地域で活動を続けている。今後も行ってみたいと思う。

ピンキッシュは中里春奈さんの推しになっていった。
現在はテレ玉(テレビ埼玉)のキャスターである。



これまではアイドル系のオフ会がメインだった私も、この頃にはオールジャンル行くことが多かった。
mixiのオフ会もアイドル系ではないものは、初めはまったく馴染めなかったが、次第に楽しめた。
人とのコミュニケーションを作る、きっかけにはなっていったし、リアルな恋愛にもつながっていった。


そして、職場の人の本命とは付き合えなかったけど、あらゆるアプローチをしてしまっていた私は、
以前から気になっていた人を誘って、職場近くのお食事処に一緒に行ったりした。(このアポが取れた時はキャナァーリ倶楽部のおっきゃんに報告したりしたが)さらにその後、サンリオピューロや山梨県や埼玉の秩父に小旅行に行った。
そして念願かなってお付き合いを始めることになったのである。いわば「彼氏彼女を持つヲタ」になっていた。

アイドル現場は遠ざかり、イルミネーションスポットや二人で行けるスポットがメインになった。
将来は家族を持って子供ができたら…などと真剣に考えたこともあった。


しかし年が明けると、私は転職とキャリアアップのため、オーストラリアへの短期留学を決意した。
期間は2ヶ月間。当初はワーキングホリデービザを取得し、現地で働くことを考えたが、
期間が短いため語学学校に通うことのみとし、留学ビザを取得して渡航することにしたのである。

今ではすっかり普及した通話アプリ「LINE」をはじめたのもこの時であった。


しかしオーストラリアから帰国したらひとり身になっていた。

恋と愛の違い。恋はもろいガラス細工のようにもろいということ、この時感じたのだった。


アイドルとリアルな恋愛、華やかな夢の舞台と現実の生活。その狭間に生きた社会人最初の三年間。
大学院時代への懐かしさと、研究に対する後悔は大きかったが、それでも好きな人の存在こそが、私を動かしていたと思う。
退職した時、一旦日本を離れ、オーストラリアに行ってみようと思い立ったのも、大学院時代にやり残したことをやり遂げるためだった。


しかし、楽しい時間というのはやがて過ぎ去っていくことである。
いや、過ぎ去っていくからこそ楽しい時間なのかもしれない。

やがてハロヲタとしての自分、私が応援し続けたハロプロに終焉が近づいてくること。
オーストラリアでの日々、そして帰国してから再就職した日々の中で、私はその日を実感し始めていた。