ハロヲタ~駆け抜けた日々~ 第5章:ハロプロ即ち日常生活 そしてダメ院生 | 元ダメ院生の旅と生涯教育ブログ

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前回は「ハロヲタ~駆け抜けた日々~ 第4章:Berryz工房 二度とない感動の瞬間」です。


2008(平成20)年。私は大学院での研究が進まない中で、悩みながら始まっていった年だった。

中野サンプラザのハロコン「Hello! Project 2008 Winter ~ワンダフルハーツ 年中夢求~」と「Hello! Project 2008 Winter ~かしまし エルダークラブ~」の両方に参戦した。
新春ハロコンは、この年が最多の参戦数になった。

前年の12月は、年末まで東京永田町にある、国立国会図書館で連日調べ物をしていた。年明けの研究論文の発表まで追い込みだった。
ハロコンが終わると再び国立国会図書館に通い詰めて、研究論文を執筆した。国会図書館の会員にもなっていた。

しかし研究発表の評価は最低だった。それでも何とか合格点という状況だった。


1月末には、横浜アリーナの「Hello! Project 2008 Winter ~決定!ハロ☆プロ アワード'08~」に参戦した。
ハロプロがプラチナ期にさしかかるこの時期のハロコンは、かつてのヒット曲と最新の曲が入り混じるセットリストが印象的だった。
モーニング娘。の「みかん」「SEXY BOY~そよ風に寄り添って~」「踊れ!モーニングカレー」が会場を沸かせると、ユニットのアテナ&ロビケロッツが「青春!LOVEランチ」を歌った。「アイ~ン!ダンスの唄」は懐かしさを彷彿させ、「ロボキッス」は道重さゆみさんと菅谷梨沙子さんが歌っていた。
エルダでは「鳴り始めた恋のBELL」、前田有紀さんの「相愛太鼓」、中澤裕子さんの「だんな様」、そして安倍なつみさんの「息を重ねましょう」。
ラストでの「Hand made CITY」や「なんにも言わずにI LOVE YOU」、「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!」は感動的だった。


この頃の大学院生活はつらかった。大学院の研究(公共政策)が中々出せなかった。
中退してはいけないという義務感だけが、私をキャンパスに向かわせていた…。

でもハロコンの感動的なシーンを見るたびに、とにかく乗り越えて頑張らなくてはと感じていた。

大学院は辛く、成果も出せず、目標を完全に見失っていたが、卒業に必要な単位はギリギリですべて取得し、あとは修士論文のみになっていた。
自分は修士論文と就職活動に集中すればよい。公務員の試験を受ければ良いと考えるようになっていた。

現場は楽しかった。いつしか現場系となってしまうが、それは現実逃避だったのかもしれない…。



2月には雪の中、Berryz工房とその頃から本格的に応援しかけていた「キャナァーリ倶楽部」のイベントに行く。
このイベントが、キャナアーリ倶楽部のイベントの実質初参戦だった。

キャナァーリ倶楽部が所属していた「NICE GIRL プロジェクト! (ナイスガールプロジェクト)」
NICE GIRL プロジェクト!の参加アーティストの一つである「THEポッシボー」(後の「チャオ ベッラ チンクエッティ」)は、ハロプロの研修生の一つであるハロプロエッグのメンバーから結成され、ハロプロのコンサートなどに出演していたが、NICE GIRL プロジェクト!の発足に合わせてハロプロエッグを卒業し、移籍する形となっていた。

ハロプロと違って握手の時間が長いなと感じたりした。
岡田怜子(おっきゃん)さんや松井友里絵(まっちゃん)さんが印象的で、中でもえり~なこと橋口恵莉奈さんの若さには衝撃を受けた。
ジュニアアイドル全般が好きになるきっかけにもなった。

その後、原宿新ビッグトップ(代々木第一体育館の隣)に行く。
シルク・ドゥ・ソレイユの「ドラリオン」で「Berryz工房『ドラリオン』スペシャル公演 」が行われた。 
ライブでは新曲「ジンギスカン」を聞くことができた。
Berryz工房の歌う「ジンギスカン」の力強さには圧倒された。



同じ時期、東京厚生年金会館では「Buono!1stアルバム『Cafe Buono!』リリース記念イベント」が行われていた。

Buono!は、前年にBerryz工房の嗣永桃子と夏焼雅、℃-uteから鈴木愛理を選抜し結成されたユニットとして結成されていた。
テレビ東京系列のテレビアニメ「しゅごキャラ!」のテーマソングを歌っていたが、
楽曲にはハロー!プロジェクト外部からの制作陣が多く関わり、ライブやPVにバックバンドを取り入れるなど、ハロプロの中でも例外的なユニットと感じていた。

リリースされたアルバム「Cafe Buono」は、ベリヲタの私にとって何気なく購入したものであったが、
声優の坂本真綾さんの歌などを手掛けた、岩里祐穂さんの楽曲もあるなど、声優が好きだったかつての自分を思い出したりもした。

しかし聞いてみると、非常にいい曲ばかりだった。
シングルでリリースされた「ホントのじぶん」「恋愛ライダー」をはじめ、表題曲の「Cafe Buono!」「こころのたまご」も良い曲と感じた。
「Internet Cupid」にはハロプロにはない音楽性を感じ、「バケツの水」「ガラクタノユメ」は、当時の自分の心境を歌われた気がして心に突き刺さった。
「君がいれば」「星の羊たち」の情景的な詩には感動して涙が出てしまった。

そして「Last Forever」。

 

 

卒業に向けて修士論文を書き始めた私にとって、この歌の卒業の光景は私のあこがれだった。
こんな卒業をしてみたいという気持ちは、修士論文の執筆と就職活動という、新たな目標の原動力とはなった。


自分はこの時、Buono!はもとより、岩里祐穂の詩の世界観にも完全に魅了されてしまったのである。
そして完全にベリキューと並行し、Buono!も推すようになった。



この頃からナイスガールプロジェクトのイベントにも参戦するようになり、
かつて存在した秋葉原の「石丸電気」のイベントスペースでのライブなども参戦するようにもなっていた。

ナイスガールプロジェクトの現場も楽しいが、楽曲では完全にBuono!の方が圧勝していたと感じている。


3月末から4月にかけて、ナイスガールプロジェクトのライブ、Berryz工房の原宿のアメーバスタジオで公開生放送などに参戦する。
この時、Berryz工房でBuono!だった夏焼雅さんが私のメッセージボードを見て、「がんばって」とレスをもらえたことは、Buono!を応援するさらなるきっかけにもなったと感じている。
(現在ではメッセージボードの使用は、多くのイベントで禁止されています)

4月に入ると、よみうりランド オープンシアターEASTでの、℃-ute「3rdアルバム『3rd~LOVEエスカレーション~』発売記念イベント」に参戦。
アルバム「3rd~LOVE エスカレーション!~」も購入した。
「ほめられ伸び子のテーマ曲」「スイーーツ→→→ライブ」「晴れのプラチナ通り」
「めぐる恋の季節」
さらに翌日には、横浜BLITZでの「ジンギスカン」発売記念イベント「Berryz工房フェスティバル ~2008春~」に参戦。
「ジンギスカン」は本当に良い曲と認識した。



大学院の講義がなくなり、いよいよ修士論文のみであったが、この頃から私は警備員のアルバイトをしていた。
給与が良い仕事と最初は思っていたが、研修から若干体育会系で最初はびっくりしたものの、
慣れてくると比較的シフトに融通がきき、続けられると感じていた。

修士論文と就職試験に合格し、「Last Forever」のような卒業を迎えたい。
そう考えるようになっていた。


4月末には、横浜アリーナ「Berryz工房&℃-ute 仲良しバトルコンサートツアー2008春~Berryz仮面 vs キューティーレンジャー~」に参戦、
テンションあげ子 (梅田えりか) with ℃-ute 合唱団の「ドドンガドン音頭」で高まり、℃-uteメンバー、とりわけ鈴木愛理さんの歌うBerryz工房の歌には感銘を受けた。
同時に、Buono!は本当に歌唱力のあるメンバーが揃っていると改めて感じていた。

5月にはリリイベ、梅田えりかパシフィックヘブンイベントなどに参戦した。
そして6月。ナイスガールプロジェクトのイベントの参戦のため秋葉原に行った際、当時ジュニアアイドルのDVDをメインに取り揃えていた「おいもや本舗」で、
埼玉にもご当地アイドルがいることを知りCDを購入した。
その頃は、ジュニアアイドル全般が好きになっていった時期でもあった。

しかしそのような中、秋葉原では通り魔事件発生した。
大変衝撃を受けた事件だった…


私はその後、大阪のエル・シアターでの「℃-ute FC Event 第9弾!~キューティーランド~」に、神戸空港を使って参戦した。
レコード大賞最優秀新人賞の受賞時の映像が印象的だった。
さらに渋谷C.C.Lemonホール「美勇伝コンサートツアー2008初夏 美勇伝説Ⅴ~最終伝説~」にも参戦。この公演を最前列で見ることができた。解散を間近に控えていた美勇伝の熱気を感じた。

7月には一泊二日の声優さんのバスツアーに行き、帰りに秋葉原のナイスガールプロジェクトのリリースイベントに行くという、今では考えられないような日程で参戦したりした。
(ナイスガールはこのような事になるが私には多く、2011年には東京と新潟を二往復したこともあった)

7月末に大学院二学年の前期が実質終了した。
ほとんど講義はなく、ハロプロやナイスガール現場と警備のアルバイトとばかりかったが、たまに登校し研究室で進まない修士論文を執筆した。
当時結成されていたユニット「High-King」の「C\C(シンデレラ\コンプレックス)」を聞くと、当時が思い出されてくる…


8月には、国立代々木競技場第一体育館でのハロコン(最後の代々木第一体育館となった)「Hello! Project 2008 Summer ワンダフル公演 ~避暑地でデートいたしまSHOW~」、
そして国立霞ヶ丘陸上競技場で開催された「2008神宮外苑花火大会」に参戦した。

「2008神宮外苑花火大会」では、Berryz工房・℃-ute・Buono!がスペシャルライブのメインを務めた。
Berryz工房は「行け 行け モンキーダンス」で会場を沸かせていた。
私は当時流行していた「ヲタ芸」を踊り、記憶がなくなるまで日本酒の飲みまくっていた。
記憶と体調がようやく戻ったのは、翌日の北京オリンピックの開会式が始まる頃だっただろうか…

8月下旬には、1泊2日のバスツアー「Berryz工房と過ごす夏休みファンクラブツアー in 長野 ~Happy Summer Vacation!~」に参加した。
ミニライブで聞いた「蝉」は、歌詞の情景が辺りの景色と絶妙にマッチしていた。
客席からは歓声が上がり、私も心から感動した。
部屋に戻ると、朝まで同じ部屋の人と宴会し続け、泥酔して一部記憶がなくなった…。
そしてそこでの私の行動は、翌年の神宮外苑花火大会で明らかにされるとは、この頃想像もせずにいた…

翌日の北京オリンピック閉会式は新宿で見ていた。

あまりに現場が多すぎて暴れまくったせいか、8月末には夏カゼで倒れてしまった…



9月には関西方面に旅行し、京都のお寺など巡った。
そしてNHK大阪ホールでの「℃-uteコンサートツアー2008夏~忘れたくない夏」に参戦。
さらに清水佐紀パシフィックヘブンイベントに参戦した。
大学院二年の後期が始まる頃には、「Berryz工房コンサートツアー2008秋~ベリコレ!~」に参戦した。

この頃、私はかなり出遅れたが就職活動に励んでいた。
地方公務員の採用試験や官公庁の筆記試験を受けていた。一次試験の筆記試験、さらには面接試験を受けていた。

その合間には、「℃-ute劇団ゲキハロ第4回公演『携帯小説家』」 池袋サンシャイン劇場 
「Berryz工房コンサートツアー2008秋~ベリコレ」の東京公演では、ハロプロエルダークラブ(当時)のメンバー全員がハロプロから卒業することが公式サイト発表され、会場では開演前から激震が走っていた。

四国地方へ旅行し、松山→高松→徳島→フェリーで和歌山・大阪と巡り、
大阪厚生年金会館 芸術ホールでの、Berryz工房「ファンの集い2008」に参戦した。
新曲「MADAYADE」で会場は盛り上がった。この時、握手は私が一番だった。
帰りは初めて関西空港を使用した。



私の就職は、公務員試験を受けるも一次で合格しても面接落ちが相次いだ。
当時はアメリカ発の大不況である、リーマン・ショックが日本を直撃し、就職活動に出遅れていた私は、採用難に直面した。
あまり多くを語ることはできないかもしれないが、結局、妥協しすぎて最初の就職で失敗したということになる。


年末年始も修士論文の執筆に集中した。
しかし半分諦めかけていた。とはいえ唯一の就職内定だけが、最後まで頑張らせた原動力だった。
とはいえこの時、あと一年大学院に残っていならと、今でも後悔することの方が大きい。


Berryz工房はジンギスカンで「第41回日本有線大賞 有線音楽賞」を受賞した。
また、韓国で行われた「第5回 2008アジアソングフェスティバル」では「アジア最高新人歌手賞」を受賞していた。


私も12月、初めて韓国を訪れた。
ソウルの明洞(ミョンドン)や弘大(ホンデ)、さらには現地ツアーに参加し、北朝鮮との軍事境界線(DMZ)まで行った。
ツアー参加前には、有事が発生し仮に死亡しても自己責任としますという旨の書類にサインさせられることに驚き、
緊迫した軍事境界線の景色にさらに驚愕した。

ソウルでのCDショップでは、Berryz工房の「5(FIVE)」と「愛のなんちゃら指数」、Buono!のアルバムが韓国でも発売されていた。

韓国は観光地としても魅力があり、韓流ブームになるほど韓国の音楽は文化としても優れたものであったが、
一方で依然として分断された国家であり、休戦状態の準戦時下が続く国であると改めて認識した。
ハロプロの歌が奏でる愛が、朝鮮半島の北まで響き渡れば、争いも軍事境界線もない国になるのではないか…
そう考えたりもしていた。



年が明けて1月、中野サンプラザ「Hello! Project 2009 Winter ワンダフルハーツ公演 ~革命元年~」と横浜アリーナでの「Hello! Project 2009 Winter 決定!ハロ☆プロ アワード'09 ~エルダークラブ卒業記念スペシャル~」 に参戦する。
エルダの卒業自体には、それほど悲しみは感じなかったが、かつてのヒット曲が、もうハロコンで本人歌唱では聞けなくなるということ、
これからはベリキューがハロプロのメインとなるということに、時代の変化を感じていた。

藤本美貴さんはこのコンサートで、「ロマンティック浮かれモード」を披露した。
この曲はヲタ芸の「打ち曲」としては最も有名な曲である。
私は思わず横の通路に飛び出し、ヲタ芸していた(途中で係員に戻されたが…)
そして電光のサイリウムを握って折り曲げてしまっていた……(笑

アイスクリー娘。がお披露目され、「モーニングコーヒー (中国語Ver.)」が歌われた時、ハロプロの時代の変化をさらに感じたりした。

2日連続参戦だったその日は、新横浜プリンスホテルに宿泊した。


その時はハロコンもさることながら、直後に迫った修士論文の提出締め切りが絶えず頭をよぎっていた。
℃-uteのアルバム「④憧れ My STAR」を発売当日に購入するが、ほとんど聞くことはできず、突貫工事のごとく最後の追い込みで執筆を終了させた。
口頭試験の対策まではできなかった。

アルバムの収録曲「★憧れ My STAR★」や「One's LIFE」、鈴木愛理さんがソロで歌った「Yes! all my family」を聞くと、
今でも焦る気持ちが蘇ってきてしまう…

修士論文口答試験、最後は「本当に卒業したいか?」と聞かれ、あいまいな回答をしていた。
出来はとても悪かった。不合格が確実だろうと思ったし、一時審査での敗退さえ確信していた。

Berryz工房はベストアルバムを発売していた。
修士論文の口頭試験が終わった解放感と不安感の中で聞いた収録曲の「男の子」は、今でも当時を思い出させる一曲である。



2月には、日本青年館での「Buono!ライブ2009 ~ハイブリッド☆パンチ~」、
3月には「Berryz工房コンサートツアー2009春~そのすべての愛に~」が始まり、ハーモニーホール座間の初日に参戦する。
Buono!の「消失点~Vanishing Point~」と「ロッタラ ロッタラ」がとても印象的に残った。

しかし、Berryz工房初のハワイツアー『Berryz Kobo First Fan Club Tour in Hawaii'09』を卒業旅行としようとしたが、本当に卒業できるか疑わしく、
さらに就職内定先の懇親会と研修が重なりキャンセルすることとなった。
非常に悔やまれることだった…。

私は一人、北海道に卒業旅行した。道東や道北をメインに宗谷岬まで行った。
途中札幌で開催された「ハロプロナイト」に参加した。
そこで踊っている最中、Berryz工房のコンサートツアーがメンバーインフルエンザで中止になったことを知った。
帰ってすぐに、大学院の卒業式だった。


就職して新生活が始まっても「Berryz工房コンサートツアー2009春~そのすべての愛に~」に参戦した。
千葉公演の終演後では、mixiのハロプロコミュニティで飲み会が開かれた。
mixiのマイミクの多くの人がハワイツアーには参戦していて、お土産が少し羨ましく感じていた…
℃-uteのニューシングル「Bye Bye Bye!」を聞くことで、Berryz工房のことを忘れようとも思ったことは事実であったが、

Berryz工房のツアーは長野公演、ゴールデンウィークには新潟経由で愛知に向かい、延期となっていた愛知県勤労会館での公演にも参戦した。
中野サンプラザでの「Berryz工房ファンの集い2009」にも参戦する。

この時にはヲタ仲間の人にさえ、今の仕事が辛いということしか話していなかった…
「抱きしめて 抱きしめて」「Ah Merry-go-round」「そのすべての愛に」を聞くと、学生と社会人との狭間に生きた当時を思い出し、今でも辛いと感じることがある。


そのような中、Berryz工房は「青春バスガイド/ライバル」が発売される。

 

アニメ「イナズマイレブン」の主題歌だったこの曲は、後にBerryz工房の一つの分岐点となった歌だったのではないかと感じる。
これまでの子供時代を思い出させるような甘酸っぱい歌から、良くも悪くもハロプロのプラチナ期を象徴するような歌の路線を経て、
アニソン、さらに働く人(特に女性)を応援するような歌に、この頃から変化していったように感じている。

℃-uteは「暑中お見舞い申し上げます」を発売した。
私も本来なら社会人一年目として、こうした多くの歌に励まされるべき時期だったのかもしれなかった。


しかしこの時、有原栞菜さんがハロー!プロジェクト及び℃-uteキュートの脱退を発表した。
同年の2月から持病だった外反母趾が悪化し、ステージでのパフォーマンスが困難になり、活動を休止していた彼女の脱退は、やはりという印象だった。
そして同時に自分もまた、続けることが困難ならば、やめるというのも決断の一つと考えるようになったきっかけだったのかもしれない…

私は新卒で入社した会社を退社した。後悔は全くなく、むしろ少し休みたいと感じていた。
ただ父の知り合いが国政選挙に立候補し、その手伝いを命じられることになり、選挙事務所を毎日手伝った。
当時はリーマンショックからの長引く不況と政治不信で、与党だった自民党公明党への失望感が大きく、民主党への政権交代への期待感が大きかった。
手伝っていた事務所には全く人が来る気配がなく、最初から惨敗が予想できていた…

真野恵里菜さんの「はじめての経験」を聞くと、当時を今でも思い出す。


中野サンプラザでの「Hello! Project 2009 SUMMER 革命元年 ~Hello!チャンプル~」に参戦。

さらに今年も「2009神宮外苑花火大会」に参戦した。その年は真野恵里菜さんが出演していた。
神宮外苑花火大会では、昨年のBerryz工房バスツアーで同じ部屋だった人と偶然の再会した。
あの時私が、泥酔して床の間でヲタ芸を打ち、さらにメンバーの名前を夜空に叫び続けたなど、記憶のない事実が次々と明らかにされたのは、大変お恥ずかしいことだったが……(笑

さらに河口湖での安倍なつみさんのコンサートや「しゅごキャラ! ミュージカル」、Zepp Tokyoでの「Buono! FCスペシャルライブ~Rock'n Buono!2~」に参戦した。
9月には池上養源寺での「ハロ!プロ縁日」、「℃-uteコンサートツアー2009夏秋~キューティーJUMP!」、「劇団ゲキハロ第7回公演『サンク ユー ベリー ベリー』」に参戦した。
世間では「政権交代」などというニュースがあふれていた。


10月には大阪御堂会館の「℃-ute Cutie Circuit 2009 ~EVERYDAY 絶好調!!~」、大阪から新潟へ急行きたぐに号で向かい、新潟公演に参戦した。
きたぐに号から見た日本海に昇る朝日がとてもきれいだったのが印象的だった。

また私の母校の学園祭に真野恵里菜さんが来ることを知り、とても歓喜していた。
11月には母校の学園祭へ行き、ホームカミングデー(同窓会イベントのようなもの)に参加。その後に真野恵里菜のステージを見た。
母校でハロプロイベントという、それは最高の瞬間だった。

10月25日には、梅田えりかさんも℃-uteから卒業した。
私も何とか次に向けて頑張らなくてはと決意できたりしていた。
「Berryz工房コンサートツアー2009秋~目立ちたいっ!!~」と「私の未来のだんな様/流星ボーイ」発売記念イベントに参戦する。
清水佐紀さん18歳の誕生日て、生誕祭を行った。

さらに高速バスで徳島県に向かい、鳴門市文化会館での「モーニング娘。コンサートツアー2009秋~ナインスマイル~」に参戦した。
モーニング娘。久住小春さんのの卒業公演に当たらず、思い立って徳島に旅行したものである。JRの高速バスに初乗車した。
「気まぐれプリンセス」が大変印象的だった。
12月の久住小春さんの卒業公演は、会場だけは行ったものの、中には入れなかった…。

12月には大阪のZepp Osakaでの「Buono!ファーストライブツアー2009~Winterフェスタ!~」に参戦した。
「れでぃぱんさぁ」では、"サバンナTOKYOの真ん中で"という歌詞が"サバンナOSAKAの真ん中で"と歌われ、大阪に来たことを感じさせた。
12月30日には、Berryz工房ライブで仙台へ日帰り。「Berryz工房コンサートツアー2009秋~目立ちたいっ!!~」へ。
この公演は10月に予定されていたが、メンバーがインフルエンザになり、延期されたものだった。



この年から実に27歳まで、私はハロプロを中心に、毎月どこかのアイドル現場へ行っていた。
2009(平成21)年は実に、年明け早々から暮れも押し迫った時期まで帰省ラッシュの人々に飲まれながらハロプロ現場に参戦していたことになる。

しかし学業や就職など、肝心の本業では成果が出せずにいた。
ダメ院生になってしまっていたこともまた事実である。
モーニング娘。が「しょうがない 夢追い人」という曲をリリースした時、これは私のことか…?と一瞬考えたりもした。


私は第二新卒として大学病院の職員に就職した。
実質的に社会人1年目となるのは、翌年の4月だったことになる。

当時は現場主義な自分だったが、それは現実を離れ、逃避していた姿だったのかもしれない。
それでも自分は、常に確かな目標と夢があり、そこに向かって努力をしていたことは否めない。
それは今も確かに続いていることである。


やがて私は、ハロプロからナイスガールプロジェクト、ご当地アイドルへと現場を広げていく。

それはハロプロがもたらした現場の楽しみ方が、より身近に成熟していくときでもあった。