すべて、物事に始まりがあるように、終わりも存在する。
終わりのないストーリーはない。終わりがあるから物語となり、やがて伝説となっていく。
ハロプロが一つの物語であるとしたら、その始まりは1997(平成9)年。「モーニング娘。」の結成になるだろう。
多くのハロプロファン、通称ハロヲタにとって一年の始まりは、新春のハロー!プロジェクトコンサートの開催場所、中野サンプラザで始まるという人が多い。
かつての私もそうであった。
ハロコンは1月2日から開催される。
ちょうど1月2日には、皇居で新年一般参賀が開催される。参賀に行ったあとハロコン参戦という新年だったこともあった。
昨年、天皇陛下は譲位され、時代は平成から令和となった。
日本の歴史もまた、平成時代という物語が終っていったのである。
私は最近、U-NEXTを契約したところ、自宅でハロプロのライブが見放題になった。懐かしい過去のライブも配信されており、思い出に浸ることができる。
もう懐かしくなってしまった思い出ばかりである。
今改めて、ハロー!プロジェクトを追いかけた日々、駆け抜けたハロヲタの時代を振り返りたいと思う。
私にとってのハロプロとの出会い、歴史の始まりは今から20年前になる。
ミレニアムの節目であり20世紀から21世紀への節目だった1999年にさかのぼる。
当時は自分の部屋にはテレビが無く、ラジオを主に聞き、いわゆる「ながら勉強」をしながら定期試験などの勉強をしていた。
中学受験をして入学した中高一貫校の学校は、新設校として設立された学校で、勉強に力を入れていて課題が多かった。
大学まで受験せず(勉強することなく)進学できると信じてたことが中学受験のモチベーションだった私にとって、課題ばかり課せられる学校生活は苦痛だった。
学校の宿題など作業に過ぎないと考えたことが「ながら勉強」につながったのかもしれない。
土日になると文化放送はアニメ・声優番組がメインになる。
その時、ラジオから流れる声優さんの声は、退屈な勉強の日々だった私の胸に響き、癒された。
次第にラジオ番組表と出演する声優さんで曜日を把握していたほど、当時は生活の一部となっていった。
ラジオを聴くごとに声優ファンは深くなっていき、アイドルソングやゲーム音楽、アニメなども好きになってゆく。いわゆるオタになっていった。
それこそが自分の個性であると認識していたし、その個性があれば学校でも回りに流されずに生きていけると確信していた。今で言う「陰キャ」「オタ」であってもむしろ誇りに思っていた。
中学時代は同時に鉄道も好きだったりするなど、本当に好奇心が強く多趣味だったと感じる。
その頃、将来の夢は声優や歌手になることとも思っていた。
やがて私は単なるラジオ好きから、本格的な放送マニアにもなっていく。
今やSNSでも有名になりつつある、「テレビ東京伝説」といわれる、他局に類を見ない番組編成や報道体制もオンタイムで視聴した。
私の家ではテレビ埼玉や千葉テレビなどの独立U局も複数局視聴できた。
キー局の昔のアニメ、解説のないプロ野球西武ライオンズ戦の中継、三週遅れの関西のバラエティ番組…。他県民には考えられないようなローカル局の独自性にハマったのもその頃である。
テレビやラジオがあれば楽しく生きていられる。そう考えていた日々であったのかもしれない。
放送マニアで声優ヲタになった私は、自然の流れのごとく、アニメを多く放送し独自色の強いテレビ東京を一日中見るようになる。
「モーニング娘。」との出会いは、そのテレビ東京の「ASAYAN」を視聴したことに始まる。
当時ハロプロでは、モーニング娘。で福田明日香が卒業。太陽とシスコムーン、ココナッツ娘、カントリー娘。デビュー(インディーズ)など、話題が豊富で、「ASAYAN」自体も高視聴率だったし、当時、テレ東のスポットCM(番組と番組の間に流れるCM枠)時間帯でも盛んに番宣が流れていた。
後藤真希のモーニング娘。加入は衝撃的で、まるで報道特番のようであった。
当初はアイドル番組は見向きもしなかったが、声優番組でも盛んに流れてくるハロプロの歌に次第に魅了されていった。
「LOVEマシーン」「恋のダンスサイト」これまで聞いたことのないような歌詞とメロディーが斬新だった。
周知のようにモーニング娘。はつんく ♂プロデュースのアイドルである。
つんく ♂は大阪出身であり、大阪特有の笑いのツボがどことなく散りばめられている。こうした路線も既存のアイドルとは違い、当時の私には面白いと感じていた。
いつしかモーニング娘。の歌は全て歌えるようになっていた。
中学からそのまま高校になると思って内部進学した高校は、まったく校風の違う系列校に吸収される形での進学となり話が違った。
そして学校にはまったく馴染めなくなった。
中学の頃には好きだった女子がいた。しかし他の高校に進学していた。
内部進学した女子の数は少なく、学校以外の出会いも無い。
中学卒業後の春休みには、「Memory 青春の光」と「指輪(坂本真綾)」がずっと頭で流れ続けていた…。
体育系学校から進学校化を目指して中学を設立したものの、高校の方は依然として体育系。体育系なノリで勉強を強要されることは苦痛だった。
勉強ばかりを押し付けてくる高校、好きな女子もいない。失望感だけが大きくなる。
「内部進学ではなく、公立高校を受けたかった」と毎日のように後悔し、一時は中途退学さえ考えたほどだった。
そのような生活の中で、テレビとラジオ、それに黎明期のインターネットだけが楽しみだった。
中学高校1年くらいまでは、案外本気で将来の夢は芸能界に行くことと思っていた。でもオーディションの受け方とか分からずにいた。
そんな少しの芸能志望だった自分もあってか、声優やハロプロのようなテレビの中の人だけが恋愛対象になっていった。
インターネットが我が家に来たのは2000年の冬だった。
そして2001年元旦、21世紀最初の日に私は初めてインターネットにアクセスした。
当時の森内閣が掲げたe-Japan構想を受けるが如く、森喜郎総理大臣(当時)のホームページを見たのが最初だった。
そんな中、自宅を建て直す計画が家族の中で出た。
半年後にはそれまで過ごした自宅は解体され、残ったベランダ部分のスーパーハウスが仮設住宅となった。
その仮設住宅の間取りによって、テレビとパソコン(当時は自宅に一台が普通だった)が独占できる環境になった。
私の趣味のライフスタイルが大きく変わる瞬間だった。
テレビでは毎日のようにモーニング娘。が出るという、まさに黄金期。私は毎日視聴することができた。
深夜に放送していた「美少女教育」、日曜昼の「ハロー!モーニング。」、音楽番組も欠かさず視聴し、モーニング娘。の出演を楽しみにした。
街を歩いてもモーニング娘。の歌、「ザ☆ピ~ス!」「Mr.Moonlight ~愛のビッグバンド~」「そうだ! We're ALIVE」が聞こえる。
さらにはテレビ埼玉にもモーニング娘。が出演し、その感動は頂点に達して行った。
同時に好きだった鉄道では、その風景や旅の魅力に魅かれていたが、そこに歌と音楽が加わった気がしていた。
だが高校には結局、3年間なじめなかった。
趣味では、アイドル、声優、放送ファンなど充実しており、後の自分の娯楽の礎となった時期ではあったものの、高校での生活は、同級生に対しても教師に対しても、不快で腹立たしいことばかりだった。
勉強や高校レベルの学力、友達や女子との交流などの人間関係の形成はすっかり置いてきてしまった。
そうした状況にこれらの趣味は、私を明るく支えていたのかもしれないし、ただの現実逃避だったのかもしれない。
時代はインターネットの黎明期。当時はネットはあってもブログやSNSはなかった時代で、多くの人が個人のホームページを立ち上げ、そこに掲示板ページを作り交流をするというスタイルだった。
放送ファンや声優ファンを中心に、ネットで多くの知り合いができた時期でもあった。携帯電話を初めて持ったのもそのころだった。
私は当時、学校などでの友達よりネットで知り合った人の方が多くなっていた。
今でもSNSやリアルでの交流があり、本当に良い出会いに恵まれたと感謝している。
中学生の頃は、歌手や芸能人になりたかったが、いつしか「この学校を私の最終学歴にはしたくない」という気持ちと、教員免許を取得して自分の方が優れた教育ができると証明してやりたいという考えが、大学進学へのモチベーションとなり、大学進学一本になっていった。
14歳と17歳でハマったものは、形を変えて一生どこかでハマると、最近よく聞かれる。
その頃の自分を好むか好まざるかにかかわらず、声優が好きでハロプロも好きだったという事実に変わりはなく、後の人生を決定付けたものだった。
声優の歌は17歳を境に徐々に聞かなくなっていった。
それでもこの時、ハロプロと歩む私の人生は確実に始まりかけていた。