昨日の続きですが、なぜ私たちは「善因善果・自因自果」は認めても、「悪因悪果・自因自果」は認められないのか。
それは、私達は自分のやった善い行いはいつまでも覚えていますが、悪い行いは忘れてしまうからです。
善い行いは覚えていますので、それ相当の結果が返ってくれば、「ああ、あの結果が来たのだな」と分かりますが、悪い行いは忘れてしまっていますので、それに対する相応の結果が来てでも、「なんでっ!」となってしまうのです。
踏まれた足は痛いですが、踏んだ足はキャッシングも痛くありません。
貸したお金は覚えていますが、借りた金は忘れてしまいます。
施した恩は覚えていますが、受けた恩は受け流しです。
中でも顕著なのは、親の恩に対する態度ではないでしょうか。
両親から大変な御恩を受けておりながら、親に対する態度はどうか。相当ひどい態度(身口意の三業での悪い種まき)をとっておりながら、そのことに罪の意識もありませんし、ケロッと忘れてしまっています。