日光道中 第12回 栗橋宿 その2 | 街道歩き

街道歩き

2022年東海道五十三次完歩後、いろんな街道歩きをしています。

2024年2月10日

 

お昼を食べ終わって、街道に戻ります。

 

明治天皇行幸記念碑

明治 19 年(1886)利根川の鉄橋が完成した際の開通式のための行幸がありました。

 

天皇 は汽車で栗橋駅まで来た後、歩いて鉄橋を渡り、

船に乗って鉄橋を眺めながら戻りました。

初代の利根川橋梁 全長461.5メートルで当時の日本でもっとも長い鉄道橋。

 

トラス桁の設計はお雇い外国人チャールズ・ポーナルが担当。

 

建設を任されたのは、荒川橋梁などに引き続いて小川勝五郎。

 

明治天皇は、橋の上から川に飛び込んで見せるものはいないかと発言し、

真っ先に小川勝五郎が飛び込んで見せ、

さらにその配下の鳶職たちが次々に飛び込んで見せたため、

大変喜んだと伝わっています拍手 (写真・文Wikipedia)

 

天皇の驚きと感激が伝わるような逸話ですラブ

 

関所番士屋敷跡

寛永元年(1624)頃から明治初期に廃止になるまで関所番士はここから関所に通いました。

 

ここには屋敷が4軒あって、敷地は洪水に備えて高く盛り土されていたそうです。

 

八坂神社

神社が上に見えているのに、

 

工事中のため、延々と回り道をした挙句、参道が嫌になるほど長いのでしたギザギザ

 

八坂神社周辺地区の堤防強化対策工事です。

 

道路の切り回し工事も順次行いながら、堤防の盛土工事を行っているそうで、

 

徒歩での参拝者を想定していないのかもしれません。

立派な階段もすべて通行禁止注意

 

ブーブー文句を言いすぎて、参道の写真撮り忘れましたアセアセ

 

社殿に着くと、味気ない神社に変わっていましたガーン

古い部分を移築してありました。

狛犬が「鯉」です。

利根川の洪水の時に、鯉がご神体を運んできたことに由来するそうです。

 

2020.12.9 八坂神社上棟祭の模様 

 

盛土工事に併せて、堤防の上に八坂神社を移転させる工事と

神社境内の埋蔵文化財発掘調査なども同時に実施していく予定だそうです。

(八坂神社ホームページより)

八坂神社の元あった場所。参道の下です。(「時々、旅に出る」さんのブログより)

 

 

参道を下って、日光街道に戻ります。

この辺りにあった「本陣」「脇本陣」は発掘調査が行われ、まだ工事が終わっていないので、

表示がありませんでした。

 

堤防上に、栗橋宿の全容がわかるものを作る計画があればいいですが・・・

 

栗橋宿

栗橋宿は利根川の舟運で栄え、近郷から集積された廻米の積み出しが行われた。

関東平野北辺に位置し、関所が置かれて厳重に警備された。

対岸の中田宿とは合宿、問屋業務は半月交代で務めた。

 

栗橋関所跡

日光街道唯一の関所。

江戸期には栗橋と対岸の中田を結ぶ渡船場「房川の渡し」の名をとり、

「房川渡中田関所」といわれたそうです。

堤防改修工事で何回も移転を繰り返した碑。

今の場所は、ここに住んでいた住民が移転して、町に土地を寄贈した所です。

 

日光道中分間延絵図 栗橋宿 

対岸は「中田宿」  「栗橋宿」の渡し場、「栗橋関所」が描かれています。

 

栗橋駅・エスカレーター脇の絵図

 

浮世絵「中古倭風俗 日光御社参栗橋渡船橋の図」(久喜市郷土資料館)

 

天保14年の日光社参の際には、石俵や碇で固定された高瀬舟51艘が並べられ、

その上に行桁、敷き丸太、敷き砂などが置かれて、

将軍一行はその船橋を通過して利根川を渡りました。

 

「怪談牡丹燈籠」の舞台・栗橋宿

(写真はNHKより)

三遊亭円朝の原作、「カランコロンと下駄の音」で有名な三大怪談のひとつです叫び

 

「お露新三郎」「お札はがし」「栗橋宿」「関口屋のゆすり」という一連のもの。

 

伴蔵お峰の夫婦は幽霊からもらった百両を懐に故郷「栗橋」に帰り、
関口屋という荒物商いの店を構え、たいそう繁盛していた・・・・

 

お国が勤めていた「笹屋」は、明治期に刊行された『埼玉県営業便覧』に、

笹屋の屋号を持つ凍氷貯蔵のお店が記されていたり、

明治期の円朝の紀行文『上野下野道の記』に栗橋宿を訪れた円朝が笹屋に宿泊していることなどから、モデルがあったと考えられています。

また、『上野下野道の記』の中で円朝は、「栗橋宿は牡丹灯籠の友蔵の産地なり」と自ら記しています。

 

この話を思い出しながら歩くと、伴蔵夫婦の開いた荒物屋「関口屋」や

 

お国が働いていた割烹旅館「笹屋」も、この街道にあって、

 

その角から伴蔵やお国が飛び出してくるような気がしました。気づき
 

 

古い家並みが残っている街道を歩きます。

「乙女屋」屋号が昔っぽい。鮮魚屋さんです。

 


「橋原屋」建物は江戸期。燃料店創業は明治中期。戦後は味噌、塩販売。

「塩小売店」のプレートは塩専売制度の名残ですね。

 

↑吉岡燃料店。どっしりとした造りの商家↓

 

明治期創業の「宝来屋」菓子店は、廃業して、きれいな一戸建ての家になっていました。

 

「あづまや」靴履物店。まさに昭和のお店。当時は看板建築が斬新だったのでしょうね。

 

「よしだや呉服店」建物は新しく改装されています。

 

「洋服のイタヤ」おばあちゃんの服が並んでいました。

 

栗橋駅へ向かいます。

道標。

 

突き当りが駅。廃業した店もあり、駅前通りもひっそり。

 

静御前之墓

静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、

文治5年(1189)に当地で亡くなったと言われています。

 

目の前の「三笠屋 静御前店」で最中を買いました。

左は栗の入った餡子、右はゆず味の白あん。美味しかったですラブ

 

栗橋駅前広場。

 

静御前に見送られて、栗橋をあとにしましたバイバイ

 

次回は中田宿です。