2024年1月8日
その1からつづく。
天気はいいけれど、風か強く寒いです。
みんな、帽子を被ったり、手袋をしたり、防寒対策しました。
幸宮神社
400年以上の歴史を持ち、大正3年(1914)の合祀を機に幸手町の総鎮守となりました。
雷電神社
幸手宿の総鎮守。
ご神体は一色氏が奉納した雷神。
「田の中に金色の雷神が落ち、これを祀って田宮とした。
雷神は水との関係が深く、特に農家の人々の信仰を集めた。
社の裏には瘤神社、疣権現,疱瘡宮と書かれた石が建てられいて、
皮膚病に悩んだ人々の、素朴な信仰の姿を見ることが出来ます。」
狛犬も雷神風
拝殿の可愛らしい雷神様
瘤(こぶ)神社、疣(いぼ)大権現、疱瘡(ほうそう)宮
イザナギが衣を投げたときに出現したとする(黄泉から帰って穢れを祓うため禊をした際か?)
瘤神はのちにスサノオの禁じるところに従って心を改め、
今後は日本人の瘤を治すとスサノオに誓った。
そして垂仁天皇の代に田宮雷電神社が創建された際、その末社として祀られた.
(伝統の日本紀行ブログより)
神社の裏手にある場所。
小さな石の積まれた上に置かれた神たち。
古くからの土着の神に、引きつけられたように皆黙って立ちすくんでいました。
身がわりじぞう
「聖福寺」正面入り口へ向かうため、大正新道を歩く一行。
聖福寺
浄土宗知恩院の末寺として応永年間(1394~1428年)に開山したと伝えられています。
江戸時代には将軍の日光社参と、例幣使の休憩所に用いられ、
山門は唐破風四脚門で将軍と例幣使以外は通行できなかったとされています。
阿弥陀如来を本尊とし、運慶の作と伝えられる観音菩薩像が祀られています。
幸手一里塚跡
日本橋より12里目。
正福寺
真言宗智山派。正面のコンクリート造りの建物が本堂です。(納骨堂?と思った)
僧侶の修学機関である「談林所」が置かれ多くの修行僧を教育したそうです。
左手は、無縁仏の供養塔です。
3メートルほどの高さの上には、観世音菩薩立像がお守りしています
日光道中道標・馬頭観音道標
寛政12年(1800)造立。大きな道標です。
裏側には「こんげんどう可し」と書かれていることから、
この道標は日光道中と権現堂河岸の別れ道を示す道しるべになっていたことがわかります。
この道標は道路整備などの事情で、ここに移されたのでしょう。
義賑窮餓之碑
天明3年(1783)浅間山噴火の降灰と冷害で大飢饉になった時に、
幸手宿の豪商21人が、お金や穀物を出し合って困窮した人々を助けたことを顕彰する碑。
施粥は「満福寺」で行われました。
どこのだれが、何をどれだけ寄付したかが刻まれています(そこまで記録するのか)
当時はこうした顕彰は当たり前だったのでしょうが、今となっては如何にも上から目線
「義」や「賑」の意味合いが変わってきたように思います。
大変な年明けとなった元旦の能登地震。
街道歩きをして、日本には天災・災害にあった人々がいかに多いかを知らされました。
ここ正福寺で240年前の天明の飢饉に思いを馳せました。
能登の方々に対して心からお悔やみとお見舞いを申し上げます
石太菓子店
文久年間(1861~64年)創業。残念ながら、お休みでした
天保年間からある「塩がま」は、もち米・砂糖・赤穂の塩を用いた和菓子。
江戸時代の味、食べてみたかったなぁ
明治9年(1876)明治天皇東北御巡幸の際、『塩がま』を献上したこのこと。
橘守部翁遺蹟跡
橘守部は、江戸時代の国学者で天保の四大家と称された人。
十代半ばにして江戸にでて学び、29歳のとき、幸手の田村家の娘と結婚し20年間この地で過ごし、蓬壺庵という手習い塾を開き教授していました。
当時国学研究の主流であった本居宣長の学説に対抗し、独自の学説の確立に努め古典研究の著作を残しています。
八幡神社
明応元年(1492)創建で内国府間村(うちごうまむら)の鎮守。
幸手宿の助郷村。
信号の向こうに権現堂桜が見えてきました。壮観な桜並木
権現堂桜堤
桜のトンネルがずっと続いていました。
江戸を洪水から守るために寛永18年(1641)に築堤されました。
ソメイヨシノの寿命は50年だそうです。
桜堤には大正5年に桜が植えられましたが、戦争の時に伐採され、
昭和になってから植えなおされましたが、権現堂桜堤の桜も多くが寿命を迎えているそうです。
保存会の方々の努力によって、手厚い保存が行われているとのこと。
行幸堤之碑
明治8年(1875)に新権現堂堤が完成。
同9年明治天皇奥州巡行の際、ここに立ち寄ったことから
「行幸堤」とよばれるようになりました。
常福寺
「この観音様は手が何本?」と皆で注目していましたが・・・・
三猿が陽刻された庚申塔を見逃していました
延宝3年(1675)建立、市内最古のものだそうです。
(写真「古い庚申塔」HPより)
陽が傾いてきました。川沿いの道は寒いです。
高須賀大杉神社
「水神様」と呼ばれ、船持や船船頭衆からの信仰が篤かった神社。
筑波道追分道標
安永4年(1775)建立。
「右つくば道」「左日光道」「東かわつま前ばやし」と刻まれています。
養蚕農家でしょうか? 影がなが~く伸びてきました。
雷電社湯殿社
外国府間村(そとごうまむら)の鎮守。
幸手宿の助郷村で村内には立場がありました。
田んぼの中の一本道、遥か向こうには「日光男体山」が見えました。
風が強く、寒くて、みな無口になって歩きました
小右衛門下組八幡神社
小右衛門はこの新田を開発した人の名前。
小右衛門の一里塚
日本橋より13里目。
まさに陽が落ちるところ
弁財天堂
権現堂川から移設したお堂。
予定では「栗橋駅」が終点だったけれど、今日は「南栗橋駅」まで。
最後の気力を振り絞って歩きました。
夕焼けの中の富士山
この辺りの空っ風、恐るべし風の力
風が強くて体が冷え切って、手がかじかんでしまいました
今年の夏も猛暑になるだろうから夏の街道歩きは中止するかもしれないし、
そうなると冬の寒さなど吹き飛ばしてどんどん歩かなくちゃ
でも、寒い一日だったぁ