日光道中 第11回 幸手宿 その1 | 街道歩き

街道歩き

2022年東海道五十三次完歩後、いろんな街道歩きをしています。

2024年1月8日晴れ

 

東武日光線「幸手駅」に集合。

改札を出ると、権現堂堤の桜と菜の花の写真桜

  

幸手のマスコットのさっちゃん"桜と菜の花の妖精" かわいいですリボン

 

 

幸手宿

日光御成道、筑波道の要衝を控え、

権現堂河岸には江戸時代舟運の廻船問屋が軒を連ね賑わった。

元和2年(1616)幕府の命で宿場となった。

幸手駅の付近は「幸手城」があった場所。

 

一色稲荷神社

江戸時代初期まで幸手を支配した一色氏の陣屋跡。

 

本殿に地元国会議員の〇林氏のポスターがドーンと貼ってあり、

これなに??この人を拝めって?? ムキー

 

街道歩き新年最初の神社なのに、お詣りする気も失せました。

 

天神神社

幸手城の鬼門にあたる位置に建ち、城の守り神をして祀られました。

 

ここの本殿にも〇林氏のポスターがびっくりマーク

 

地元の人からの抗議はないのかなはてなマーク 

 

一同「幸手市民の見識が疑われるよね」と。

 

明治大帝行在所御跡碑

名主中村家に二度宿泊された。

東郷平八郎の題字。

右上がり気味の小さな文字から東郷の性格が見えるようでした。

 

見ごたえのある古い商家があります。

 

岸本家住宅主屋

かって醤油醸造業を営み、明治33年(1900)にはパリ万博で銅賞を受賞。

古民家カフェとして営業しています。

リノベーションする前の主屋、かなり痛んでいた様子。

 

旅館あさよろず

文政2年(1819)創業。「朝萬」は200年を超える歴史を持つ旅館。

明治32年(1899)以降のもの、当時としては珍しい木造3階建て。

宿札

明治9年(1876)と明治14年(1881)に明治天皇が行幸したときに同行した宮様や随行員の方々、明治29年(1896年)の大輪の大演習で滞在した要人のもの。

(写真は「旅館あさよろず」のHPより)

 

新年にもかかわらず、旅館の入り口の飾りつけもなく、ひっそりしていたので、

営業していないのかはてなマークと思ったけれど、

調べてみると、すごい旅館でしたびっくりマーク

 

永文商店

明治時代に当初は魚屋として開業し、その後、酒屋(味噌・醤油等の食料品も販売)として営業し現在に至っています。

 

江戸時代には、松尾芭蕉と弟子の河合曽良(そら)が、おくの細道紀行で幸手宿に立ち寄ったので、建物側面にはその道中の様子が線画で描かれており、宿場町の雰囲気を出しています。

左のトタン部分には、

芭蕉の句「幸手を行かば 栗橋の関」と、

曽良の句「松杉を はさみ揃ゆる 寺の門」が描かれています。

 

ガイドブックに、荷物運搬用のトロッコが載っていましたが、どこを探してもなくてショボーン

よーく観察していたら、このトロッコレールが目に入ったはずなのに泣

 

当日は休日で、この扉が閉まっていました。

この扉を開けたところに奥の倉庫に続くトロッコの軌道があって、今も現役で活躍中!!

(写真は永文商店のHPより)

 

街道に面する店舗の敷地は「短冊状地割」といって、奥行きが長い。

 
そのため荷物を効率よく運ぶためにトロッコが用いられました。
 
「横丁鉄道」として、永文商店、長島ガラス、成田金物店の3店に残っています。
 

問屋場跡

中央商店街のポケットパークが問屋場跡。

 

竹村屋

石炭商を営んでいた竹村屋、昭和初期の建築です。

 

本陣跡

現「うなぎ義語家(ぎごや)」

知久家は本陣だけでなく、問屋と名主も兼ねた幸手を代表する家柄でした。

街道に面した宅地が1028坪で、建坪も200坪近くあり

間口21間の門構えのある 他の家に際立って立派な造りでした。

明治3年には本陣制度が廃止されました。

 

さらに、明治9年の明治天皇行在所に決まったことで

屋敷内の修繕や庭木の剪定などに莫大な費用がかかり、

没落への道を早めることになりました。

 

明治20年頃に知久家は立退きを済ませ、翌明治21年

屋敷跡には隣町の久喜へ通じる道(久喜新道)がひらかれました。

(図と説明 幸手宿観光ガイドの会より)

 

満福寺

一色氏の開基と伝わる真言宗の寺院。

正福寺「義賑窮餓之碑」に記される施粥はここで行われたそうです。

 

割烹ときわや

Yさんの食指が動いたお店へキラキラ

 

110年の歴史のある料理屋さん。

6代目の店主さんが一人で切り回している和食のお店。

予約のお客さんがあったので、私たちはかなり待たされましたが、その間にこれからの予定や、いろんな計画を決めました。

 

かつ丼定食。玉子がフワフワで味付けが濃く、美味しかったです。

 

吉宗弁当

将軍徳川吉宗公は、日光東照宮に社参する道中、

享保13年(1728)岩槻を出発し、幸手宿の聖福寺境内で昼食を召し上がりました。

 

そのときの献立が残されていたことから、

早稲田大学「食の文化研究会」は、この昼食を忠実に再現する企画に取り組み、

割烹ときわやさんに調理を依頼しました。

 

店主さんは、

「他にやってくれる人がいなかったから、仕方なくやることになった」とアセアセ

地元の中学生が「吉宗弁当」を紹介していました。

 

塩煮の山芋  にしめの蓮

焼き豆腐 切り唐辛子

ひじき  色付きくわい

鯛のお刺身

玄米 香物

くだき豆腐と菜のすまし味噌汁

 

「吉宗弁当」2400円。3日前に予約すれば食べられるそうです。

 

倹約を旨としていた吉宗らしい、質素な食事。

 

民家の立派な冠木門。広い敷地に大きな母屋。

 

「愛の妻路地」ハートという路地を通ります。

 

この路地は「切り屋根の家が路地の両側から向かいっていた」からだそうです。

 

なんとも粋な路地名です乙女のトキメキ

 

旧日光街道に出ました、宿場町の雰囲気の残る街並みが続きます。

飯村医院

町屋形式の医院建築は、街道にマッチしていました。

 

ノグチ堂電気

古くて廃墟になっているけど、モダンな外観。

 

長島ガラス

長~い町屋形式の家。

ここにも「横丁鉄道」があるはずですが、お店は休日で閉まっていました。

 

「横丁鉄道」を模したものはてなマーク 

何も表示がなくて、わかりませんでした。

 

関薬局

立派な板塀と蔵。

 

高濱商事

昭和9年(1934)竣工。代々、肥料商や穀物商を手掛けてきた家。

「帝国軍人會 通常會員」のプレートがありました。

 

その2へつづく・・・・