日光道中 第9回 粕壁宿~杉戸宿 | 街道歩き

街道歩き

2022年東海道五十三次完歩後、いろんな街道歩きをしています。

2023年11月12日(日)くもり雨くもり

 

春日部駅に集合して5人で歩きます。

 

今日は寒くて、その上小雨が降ってきました。

 

コロナ感染して、しばらく静養していたタケちゃん(85歳)が元気に参加しました拍手

 

春日部郷土資料館

春日部の名産品、箪笥、羽子板、麦わら帽子などが展示されていました。

  

 

 

東陽寺

「伝 芭蕉宿泊の寺」「伝」を付けるだけで余計な争いを避けたはてなマーク

「甘七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」

 

古利根川沿いに歩くと、右手にこんもりとした木が見えてきました。

 

碇神社

神社前には下喜蔵河岸があったと伝えられています。

 

これが樹齢600年の大ケヤキです。

 

昭和54年(1979)の台風で折れて7メートルほどになりましたが

しっかり養生してあります。

江戸時代の名主多田家屋敷の稲荷だったそうです。

 

脇本陣跡

幕末に本陣となった「高砂屋」

明治天皇の東北巡幸の際、高砂屋は御昼食所となった。宅地は417坪!!

(写真は春日部教育会のブログよりお借りしました)

19世紀の大英帝国の旅行家、イザベラ・バード。

 

明治11年(1878)6月10日に高砂屋に宿泊したバードは、

悪臭や蚤・蚊に悩まされたとつづっています。(『日本奥地紀行』)

 

高砂屋は明治天皇も利用されるほどの、上等な旅籠だったから、

手入れも行き届き、ピカピカであったことは間違いないキラキラ

 

季節が夏で、蚤や蚊は当たり前に飛び回っていただろうから仕方ない下矢印

悪臭?? これはボットントイレの臭いかなもやもや

 

「世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、

まったく安全に旅行できる国はないと信じていると日本を絶賛している拍手

 

まぁ、差別的否定的なことも書いているけどね。

 

単なる旅行ではなく、

英公使のパークスから取得した「内地旅行免状」を抱えて、

キリスト教普及の可能性を探ることと結びついた旅だったそうです。

 

それにしても全行程4500㌔を越える旅びっくりマーク

バードの旅に俄然興味が湧いてきました飛び出すハート

 

群馬銀行の辺りに、「小沢本陣」があったらしいですが、

標識はありませんでした泣

 

関根本陣跡

 

道標

天保5年(1834)建立の道標。

「西南いハつき(岩槻) 北日光 東江戸右之方陸羽みち」

田村家の豪壮な屋敷、裏には大きな蔵が残っています。

 

田村荒物店跡

 

問屋場跡の説明板

 

永嶋庄兵衛商店

慶長年間(1596~1615)創業の米問屋。

400年以上続いている米穀問屋です。日曜お休みでした。

屋根の上に鍾馗様、魔除けの神様だそうです。

 

佐渡屋跡

戦前まで浜島家が米穀商を営んでいました。

黒漆喰の土蔵(国登録有形文化財)

高札場跡

日光道中が分岐する三叉路で、高札が設置されていました。

 

最勝院

日光東照宮に移籍される三代将軍家光の亡骸が仮安置されたところです。

広大な境内。

明治期には小学校が開設されたり、相撲やサッカー、芝居など興行が行われました。

春日部重行公御霊古墳

「春日部」の地名の由来となった南北朝時代の武将の墳墓です。

シイの木は樹齢600~700年だそうです。

↑墳墓を守るシイの木が見事でした。

 

成就院

平成8年(1966)に新しく建て替えられた仁王門。

見川喜蔵墓と見川家五輪塔

見川喜蔵は粕壁宿の役人を務めた人で、窮民救済に尽力した偉人です。

 

上喜蔵河岸跡

ここまでが「粕壁宿」です。

「新町橋」を渡ります。今日は寒くて寒くて、手がかじかみそう雪の結晶手

「新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。

新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、

江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用した」(写真・文は春日部教育会のブログより)

左手から「古隅田川」が「大落古利根川」に合流する。

「大落(おおおとし)」は、「大きな農業排水路」という意味だそうです。

 

「大落古利根川」は、杉戸町と久喜市を起点とする利根川水系の一級河川。

昔この川は利根川の本流でした。

江戸時代、「利根川の東遷」で利根川の流路は東側へ。

海との合流地点が、東京湾から銚子沖の太平洋へと大きく変えられたのです。

東遷によってこの川は利根川の本流ではなくなり、現在の利根川水系中川の支流になりました。

(文はSAITAMAリバーサポーターズのブログより)

 

八坂香取稲荷合社

 

仲蔵院

寛政4年(1792)建立の青面金剛庚申塔。入口にポツンと置かれていました。

仲蔵院の境内の松が大きく曲がって隣の稲荷合社へ伸びていました。

 

小渕一里塚跡

日本橋より9里目。右は庚申塔天保3年(1832)建立。

 

追分道標

関宿往還追分。

右の道標は宝永6年(1709)建立「右方 せきやど道、左方 あふしう道」

左の道標は宝暦4年(1754)建立、正面に「青面金剛」左面に「左 日光道」

 

そろそろお昼の時間です。

いつもはお昼の時間を早めに知らせてくれるYさんが、今日は何も言わない、おかしい??

 

出がけに朝食をしっかり食べて来たからなんだって爆  笑

「ガスト」で定食を食べました。

タケちゃんは、初めての「ガスト」

「一人飯には最適だね!!」これからはガストを利用しようと喜んでいました。

 

暖かいご飯を食べて、やっと体が温まりました上矢印

 

観音院

鎌倉時代中期の建立とされる古刹。

楼門(仁王門)は市指定有形文化財。

本尊は「いぼとり観音」としてご利益があり、60年に一度の御開帳。

4年後の御開帳に合わせて、大規模修繕の最中だそうです。

真菰にくるまれて御厨子のなかに安置されているそうです。

 

かなりボロボロになった金剛力士像ですが、迫力あります!!

「物言えば唇寒し秋の風」芭蕉句がありました。

 

境界標識

春日部市と杉戸町の境「北緯36度線地球儀」

 

香取神社

寛政6年(1794)建立の青面金剛像、庚申塔など。

 

九品寺(くほんじ)

道標を兼ねた庚申塔「左日光」「右江戸」

この道標は天明4年(1784)堤根の村民42人が建立したもの。

 

道標の向きがおかしい??と、ひとしきり議論ピリピリ

 

堤根立場跡

九品寺向かいの高野家が立場を営んだとのことですが、表示がありませんでした。

 

大六天

隣の大きな旧家。小社は屋敷かもしれません。

 

馬頭院

慶安2年(1649)の中興。本尊は伝教大師作の馬頭観世音菩薩像。

元文5年(1740)建立の青面金剛像庚申塔。

 

鹿島神社

鹿島神宮からの勘請。武神であることから武家の崇敬が篤かった。

 

三本木の一里塚跡

民家の生垣の中の案内板。日本橋より10里目。

 

万福寺(酬恩社教会)

明治11年、時の権力体制が仏教を弱体化させようとした動きの中で、

これに立ち向かって結成されたのが酬恩社だそうです。

単立系仏教寺院だとのこと。

 

本堂は清池学校の仮校舎になりました。

(写真ボケました泣

 

八幡神社

三本木の鎮守。

 

神明神社

天神神社が祀られていました。

ひっそりとして、何の説明もない、地元の人だけが知っている神社。

 

関口酒造

歴史ある関口酒造の家屋は約120年前のものキラキラ

旧屋号「豊島屋」

創業文政5年(1822)関口家の始まりからは14代目という!!

 

今日はここで終了グッド!

 

大落古利根川に沿って、「東武動物公園駅」へ向かいます。

川沿いの手すりに「灯ろう」の絵がありました。

「階段護岸や遊歩道の設置を軸とした親水護岸を整備しました。

毎年8月には、古川橋~清地橋の一帯で「古利根川流灯まつり」がおこなわれ、

大勢の人々が集まり川に親しめる場所として活躍しています。」

(写真・文はSAITAMAリバーサポーターズのブログより)

 

「地上に降りた天の川」とも呼ばれているそうです。

幻想的なイベント飛び出すハート