日光道中 第6回 草加松原~蒲生~越谷駅 | 街道歩き

街道歩き

2022年東海道五十三次完歩後、いろんな街道歩きをしています。

2023年6月18日(日)晴れ

 

東武スカイツリーライン「獨協大学前」の改札に集合。

 

一か月ぶりの街道歩き、今日は30度越えの猛暑予報ですアセアセ

 

前回終了地点の「草加松原」の遊歩道に戻ります。

 

松尾芭蕉文学碑

「奥の細道」の一節

「其の日ようやく草加という宿にたどり着にけり」が刻まれているけれど、

彫りが浅くて読みにくいです。
 

水原秋櫻子句碑

「草紅葉草加煎餅を干しにけり」秋櫻子。煎餅を干す光景が見られたのでしょう。

 

中曽根橋

「袴」をはいたような橋の意匠が和風味でした。

 

修景施設が続きます。

 

「今様草加宿碑」草加松原の北端、終点です。

 

石仏石塔群

寛政7年(1795)建立の馬頭観音。他に水神、青面金剛像庚申塔が安置されています。

 

松に代わり、桜が植えられていました桜

 

高架ガードをくぐります。

 

奥の細道壁画

草加に辿り着いた芭蕉と曾良の旅姿が描かれています。

 

槐戸橋(さいかちどばし)

綾瀬川、橋の欄干にくっついた虫は何?

槐(サイカチ)の幹からは 樹液 がでて、 カブトムシ や クワガタムシ がよく集まる 。 

そのため、カブトムシを「サイカチムシ」と呼ぶ地域も在る そうです。

 

金明愛宕神社

 

蒲生一里塚外観

綾瀬川と出羽堀が合流するところにあります。

 

蒲生大橋

(左側)草加市と(右側)越谷市の境に位置する橋。

橋のたもとに、高浜虚子の句が埋め込まれていました。

 

藤助酒店

高橋藤助氏の子孫が営む酒店、立派な蔵があります。

 

藤助河岸跡

日光街道と綾瀬川が交差する地の利を生かして、綾瀬川を代表する河岸場の一つとして繁栄しました。

大正9年(1920)東武鉄道に越ヶ谷駅が設置されたのを機に次第に衰退し、昭和初期に廃止されました。

荷物の積み下ろし小屋の一部が復元され、当時の面影を伝えています。

 

蒲生の一里塚

埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚で、東塚のみ残っています。

日本橋より五里目。

榎が繁茂し、愛宕社が祀られて、塚下には地蔵尊が並んでいます。

 

茶屋通りを歩きます走る人

この辺りは「立場」で多くの茶屋があり「焼米」が名物でした。

橋の左岸プレートに、江戸時代の武士、俳人である水野長福の句が掲示されています。

 

不動明王道標

享保13年(1728)建立の不動明王の台石には「是より大さがミ道」と刻まれ、

大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねています。

 

並びには笠付青面金剛像庚申塔、正徳3年(1713)建立。

 

ぎょうだいさま

わらじが吊るされている不思議なお堂はてなマーク

囲ってあるので内側がわかりません、皆で覗き込みます目

 

江戸中期宝暦7年(1757)に行われた日光街道大修繕を記念して建てられたもの。

奉納されたわらじが下がっています。

ぎょうだいさまは「交通の神様」「足の神様」として旅の際に足を痛めないようにわらじを奉納するひとが絶えなかったそうです。

 

格子の中を覗くと、二匹の鬼がびっくりマーク

右は夫で斧を持つ赤鬼。左は妻で水瓶を持ち笈を背負う青鬼。

 

怪物のような!? カエル? 怪鳥?

全体を見ることができないので、皆で想像を巡らせました。

 

写真は「ぶらっと越谷」のブログより

囲われていなかった当時の写真「砂利道供養」の石塔の上にぎょうだいさまが載っている。

 

このあたりでは「ぎょうだいさま」=行台さま、行者さま、と呼び、

修行する姿は烏天狗に似る→ いかにもカラスの口ばしを持つ天狗

 

「行台さま」は修験道開祖の役行者であり、護法善神=守り神である。

 

宝暦7年の豪雨では、利根川が決壊して綾瀬川も押し切られて大災害となり、

蒲生付近の日光街道は水没して、往来が途絶えてしまった。

 

幕府から道中普請を命じられた時の総指揮者が行者たちであり、

修験道開祖を刻んで将来の安穏を願ったものとされる「越谷探訪」のブログより

 

 

清蔵院

 

山門の「龍」の彫刻は、左甚五郎作と伝わるが、どうも怪しい笑い

 

お昼は「華屋与兵衛」で。

暑さの中を歩いてバテ気味アセアセ 涼しい店内でほっと一息。

 

久伊豆宮寿神社

医療、温泉、酒造業者等の信仰が篤い神社です。

 

明治天皇田植御覧之處碑

明治天皇は明治9年(1876)奥州巡行の途次、蒲生で田植えをご覧になりました。

この碑は昭和31年(1956)に建立。

報知新聞奥羽御巡幸図會会 埼玉県田植天覧之図 (三代 歌川 広重)

 

お供の数は総勢千人を越える大行列ピリピリ

 

初めて御覧になる「田植え」だったのかもしれません。

 

この巡幸は「六大巡幸」のひとつ。

第2回目、明治9年(1876年)6月2日~7月21日の東北地方(函館を含む)です。

 

明治維新のときに新政府に抵抗していた奥羽諸藩をめぐる巡幸で、

国内の安定と言う意味で、待望されていました。

 

帰途、「明治丸」に乗船され船青森から函館を経由して横浜港に無事帰着しています。

 

このとき、「明治丸」が横浜港に到着した明治9年(1876)7月20日

「海の日」波 のきっかけとなったといいます。

 

越谷ガードをくぐります。

本場徳島・東京高円寺とあわせ日本三大阿波踊りといわれる「南越谷」乙女のトキメキ

 

こんなデザイン、粋ですね~キラキラ

 

窮民救済の碑

石仏た石塔がまとめられて、金網で囲まれていました。

 

瓦曽根村の名主・中村彦左衛門は、飢餓に備えて金子を幕府御貸付け所に預け入れて、

天明年間(1781~89)の凶作の際に、元利金を払い下げて窮民に与えたとのことです。

 

昭蓮院

越谷市指定文化財である、千徳丸供養塔があります。

天正10年(1582)武田勝頼が自刃すると、家臣が遺児の千徳丸を瓦曽根村に連れて帰り

潜居しましたが、早世してしまいました。

千徳丸供養塔

(写真は越谷市H.P)

余りにも暑くて、早く休憩したくて、供養塔のことは忘れてしまいましたアセアセ

タケちゃんの仙台土産「萩の月」を頂いて、木陰で休憩。

 

こんな石仏を見つけました、「アイ―ン」している!?

東村山駅前に建つ「志村けんの像」

「アイーン」している真面目な志村けん、ちょっと印象が違って残念ですちょっと不満

 

里程表

東京雷門 大宮への距離が刻まれています。

 

越谷駅に向かって、最後の気力を振り絞って歩きます走る人

 

新町八幡神社

文和2年(1353)創建、越ケ谷宿新町の鎮守。

御神燈は文政7年(1824)の建立。

 

お疲れさま、暑い一日でしたアセアセ

 

越ケ谷駅からそれぞれ帰宅しました。

 

次回は7月、梅雨明けの暑い時期に「越ケ谷宿」を歩きますあせる