カール・マルクスの経済理論と反緊縮についてのメモ | Ternod Official blog

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哲学思想研究、文人画。 反緊縮行動(Anti-Austerity Action)〔生ー政治(Bio-politique)に抵抗する自律労働者(Autonomia Operaia)〕。 ブラック・ミュージックをこよなく愛す。レコード/CD店、古本屋、美術館などで出没することが多いです。

 

今年はマルクス生誕200年だそうである。

それに合わせたシンポジウムや映画、一部には式典などが行われたりしている。


マルクスについては、資本主義に対する原理的な批判として、当然読まれるべき重要な古典ではある。
だが、ポスト構造主義以降におけるマルクス読解においては、古典としての読解の意味は、ガラクタの中から使える部品を探し出して対処療法的に利用することであった。

私も、現代におけるマルクス読解には基本的にはそれ以上のものになりえないと考える。


まず、『資本論』に描かれた資本主義とは、資本家、労働者、農民からなる純粋階級による純粋資本主義であり、いわば原理論的モデルにすぎないと述べたのが宇野弘蔵である。
宇野弘蔵『経済原論』(岩波書店)で示された、いわゆる宇野原理論である。
のちにフランスの哲学者ルイ・アルチュセールも、純粋資本主義による純粋階級はありえないと述べている。

 

そして近年では、リフレ派と呼ばれる経済学者である飯田泰之・明治大学准教授による労働価値説批判がある。

労働価値説とは、人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を反映するという、アダム・スミスやデイヴィド・リカードらの古典派経済学をマルクスが引き継いだものである。

そこには需要と供給の関係による商品価格の決定、経済状況による労働賃金の変動という問題がまるで考慮されていない。

それに商品価格に投入された労働量が反映されているという見方は、明確に第二次産業を想定しており、第三次産業、とくに1970年代以降の産業構造の転換以降は、まるで的外れの議論にしかなえない。

 

ケインズ主義経済学の再構築を目指して来た岩井克人・東京大学名誉教授はマルクスの労働価値説を批判していた。岩井氏によれば、マルクス及び古典派経済学における労働価値説は産業資本主義時代の経済理論にほかならず、続いて登場した新古典派経済学の需給理論によって無効化された見方にほかならない。

またマルクスが人間のあらゆる活動を「労働」に還元していることについても、岩井氏は批判的に言及している。(以上2018.12.5追記)

 

つまりマルクスは生産と資本蓄積に偏っており、需要の観点が根本的に欠落している。

そしてマルクスによる経済成長の概念は、生産と剰余価値の搾取による資本蓄積とプロレタリアートの窮乏化であり、それに対してプロレタリアートが生産手段を奪い返すというものである。

つまり第二次産業しか想定されていないし、消費は労働力の再生産論でしかない。

さらに貨幣論に至っては、貨幣は他の商品との等価交換可能な商品であり、商品の物神崇拝が生み出されるという見方に至っては、貨幣の実態が金であった、金本位制による貨幣概念を超えていない、時代遅れの代物でしかない。

 

この問題では、カール・ポランニーによれば、自由主義者とマルクス主義者は、ともに金本位制による健全通貨をドグマとして信奉していたという。

このことは、世界恐慌以降の左翼政権、たとえばドイツの社会民主党政府からフランスの人民戦線政権まで、緊縮財政を取っていたことにあらわれている。

のちに岩井克人・東京大学名誉教授による『貨幣論』(ちくま学芸文庫)ではマルクスの貨幣論から卓見すべき見方が導き出されたが、同書は岩井氏の幅広い知見によって書かれたものとみるべきである。

そして岩井氏は貨幣論を、マルクスを含む古典派経済学での「貨幣商品説」と、古くはアリストテレスに求められる「貨幣法制説」の双方を比較検討した上で「貨幣の自己循環説」を提唱している。とくにマルクスについては典型的な貨幣商品説だが、その貨幣商品説の最大の問題は、古くは石、貝、家畜、そして金属など様々な物質によって貨幣的な機能が担われたにもかかわらず、なぜその物質でなければならないかの説明が出来ないことにある。
貨幣法制説では、その社会で特定の物質が貨幣と定められたのは、ノーモス(νόμος=法や慣習)に求められる。
その上でいうなら、マルクスの貨幣論は、そうした問題への視点は見られない(以上2018.12.8追記)

なお、ケインズ経済学を中心とする近代経済学における経済成長の概念は、財とサービスの取引の総計であり、そこには政府支出や消費も含まれる。第一次産業から第三次産業、たとえば20世紀以降に拡大した文化産業、営利的な芸術活動、夜の歓楽街での消費まで網羅可能であり、そこからは需要政策を導き出せる点で、明確に上を行っている。

たとえばレギュラシオン理論の代表的論客として知られるフランスの経済学者ミシェル・アグリエッタは『資本主義のレギュラシオン理論(原題:資本主義の危機と調整)』(大村書店)は、第一部はアメリカのテーラー・システムによる生産体制と、ニューディール政策を経た戦後のフォーディズムと内包的蓄積体制(労使協調路線の下で、資本主義的生産はクルマや家電などの耐久消費財の生産を中心に行い、それは労働者の購買力によって支えられる。それに加えてケインズ主義的な福祉国家の下での社会保障政策や所得の再分配政策なども通じた労働者の生活水準の向上により国家と資本主義国家がともに安定する)の展開、そしてオイルショック以降のフォーディズムの解体とポスト・フォーディズムについて述べた。
これは1990年代の左派の間で活発に紹介され、議論もされてきた。

だが同書の第二部については、当時のレギュラシオン派の紹介や議論の中で、一切話題にのぼることがなかった。
その第二部とは、ケインズ主義的な金融政策、通貨政策と、労働価値説をはじめとするマルクス経済学の見方との折り合いをつけることにひたすら苦心した論理展開と、フォーディズムの下では、中央銀行により「無から創造」された貨幣供給量の増加と調整による通貨切り下げが行われてきたとの指摘である。
フォーディズムの時代とは、ブレトン・ウッズ協定(米ドルを基軸とした固定相場制)の時代であり、当時の金融政策である。
だがミシェル・アグリエッタの視点を今日的に解釈して援用するなら、インフレ・ターゲットや量的緩和を含めた反緊縮という視点で考えるべきだろう。
 
人間は労働を通じて自己を認識するというヘーゲルの考え方をマルクスも引き継いでいる。
だがヘーゲルの場合は「ホモ・ファーベル」に近いものだったのに対して、マルクスの労働観には「自己実現」という考え方がある。

それに『ドイツ・イデオロギー』における朝狩りをして、昼釣りをして、夕は家畜を育て、晩飯の後は批評をするといった労働観も加味すれば、新自由主義的な労働観に通ずる危険性を内包しているともいえよう。

またマルクスによるブルジョアジーとプロレタリアートの階級概念は、生産手段の所有と非所有によって分けられる。

だが今日の企業における株主資本主義と雇われCEO、あるいは日本企業における半強制的な社員持株制はどうなるのだろうか?

 

そもそもマルクスは初期の論文『聖家族』において、それまで影響を受けて来たヘーゲルらのドイツ観念論を捨てて、デカルトの心身二元論やラ・メトリの人間機械論などフランスの唯物論的な考え方への転向を表明している。

そこから人間意識は存在に規定される「階級意識の反映」にすぎないという弁証法的唯物論につながっていく。

だがそれは、現実の社会的諸関係の中にマルクスの階級概念をあてはめる、いわば唯物論を観念論的に把握して展開する、「観念論のネガ」と呼べるものであった。

 

さらにマルクスの階級論の誤りは、ルンペンプロレタリアート批判である。

マルクスがルンペンプロレタリアートを論じた本は、『共産党宣言』、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』、『フランスにおける階級闘争』だが、その定義は一貫していない。
そして定義が一貫していないにも関わらず、
マルクスはルンペンプロレタリアートと規定する人々に対しては、自らの階級からはじき出さして部外者ないし「不可触賤民」のような位置づけしか与えていない。
今日の産業構造の中でマルクスのルンペンプロレタリアートにあたるであろう人々を想定すると、第三次産業に部類される多くの職種に就く人々を指すことになってしまう。とくに文化産業や出版産業、情報通信産業に多いフリーランスの職業は、マルクスの階級概念ではルンペンプロレタリアートの位置づけということになる。

左翼によるセックスワーカーに対する差別と賎業視の起源は、このマルクスのルンペンプロレタリアートの定義にある。

その上でマルクスはルンペンプロレタリアートを変節しやすい反革命の温床とまで罵倒しているが、他ならぬマルクス自身がルンペンプロレタリアートそのものである。

おまけにルンペンプロレタリアートのマルクスは、女中を手込めにして生まれた子どもをエンゲルスに引き取らせたのだから、鬼畜系ゲス野郎である。今日なら#MeToo案件である。

それに対して、ルンペンプロレタリアートを革命主体として肯定的に評価したのがミハイル・バクーニンだが、バクーニンによるルンペンプロレタリアートとは、今日でいえば寄せ場労働者のような非定住の貧困層であろう。

少なくとも、マルクスのルンペンプロレタリアート批判とは、職業に対するヘイトスピーチでしかない。


いま階級問題を論ずるのであれば、その階級概念はフランスの社会学者ピエール・ブルデュー(あるいはフランスの経済学者トマ・ピケティ)による階級分類のような、所得と資産の格差を軸に考えるべきあり、それに対する対抗は、ひとつにはマルチチュードの闘い、もうひとつは反緊縮の政策的な闘いの有機的な結合によってめざすべきものだと考える。

【PS】

むかし、マルクスの本を貪るように読んでいたら、ある人から「これも読んだ方がいい」といって渡された本が、笠井潔の『ユートピアの冒険』であった。
「マルクス葬送派」と呼ばれた反マルクス主義を鮮明にしていた論客である。