「反緊縮」を考える上で、いわゆるニューケインジアンの金融/財政政策が経済政策の中心であることはいうまでもない。
だが、そこにとどまらず、国家や社会的な諸制度も含めてトータルに考えて行く必要があると思っている。
それは1970年代から80年代にかけて起きた出来事、つまりケインズ的福祉国家の解体とネオリベラズム(新自由主義)の台頭とそれに対する批判に集約される。
■ネオリベラリズムの台頭
まず、オイルショック以降の経済・金融政策の流れを見ておこう。
1973年にはじまるオイルショック以降、先進国では年間10%を超える高インフレに見舞われ、中央銀行の金融引き締め策によっても年5%を超えるインフレに悩まされて来た。しかも、通常はインフレは景気を刺激するので好景気となるが、反対に不景気でのインフレであることからスタッフグレーションと呼ばれた。
そこから金融政策としては、それまでの積極的な市場介入による景気調整を行っていたケインズ的マクロ経済学が批判され、かわってミルトン・フリードマンによるマネタリズムという、中央銀行の市場介入は最小限にとどめて市場原理に任せるという考え方が台頭してくる。その政策を導入したのがアメリカのレーガン大統領や英国のサッチャー政権である。
だが2008年に起きたリーマンショックによって、マネタリズムの限界が露呈し、かわってニューケインジアンの金融政策が取られるようになる。主流派経済学ではポール・クルーグマンやジョセフ・スティグリッツらによって知られている金融緩和策や積極財政を支持する経済政策のことである。
経済学の世界では、これによって「新自由主義の終焉」と語られることがある。
だが「新自由主義の終焉」とは経済学それも金融政策の世界だけのことであり、政治や社会、とくに労働や統治/権力論においては1990年代から2000年代を通じて強化されてきているのが現実である。
レーガンやサッチャーというと、政治的には保守的な側面ばかりが強調されがちだが、ネオリベラリズムを政治運動としてとらえるなら、68年的なリベレーションの波にサーフしながら、そのヴェクトルを向け変えさせた運動であることを重視すべきである。
むしろ、90年代や2000年代を過ぎて新自由主義的な構造改革が進められた後もなお、行政や福祉、官営事業の残された部分に対して、たえずネオリベラリズム的な「改革」を掲げた政治家が台頭して「既得権打破」を掲げて、それを「市民」が支持する構図が続いて来た。
それは新保守主義だけでなく、トニー・ブレア時代の英国労働党の「第三の道」に代表されるネオ社民、つまりネオリベラリズム的な改革を共有する社会民主主義もまた同様であるにほかならない。
このことは、ネオリベラリズムの政治運動が反復する背景を見て行く上で不可欠だと思う。
■ポスト・フォーディズムと「市場化」
ネオリベラリズムと古典的なリベラリズムとの最大の違いは、古典的なリベラリズムにとって市場はすでに存在する準自然的な存在だが、ネオリベラリズムにとって市場はあらかじめ存在せず、政治的ないし制度的に作り出すものとして構想される。
このことは、ケインズ的福祉国家の解体の論理につながっていく。
1950〜60年代にはレギュラシオン派のいう「フォーディズム」と呼ばれる大量生産、大量消費、最低賃金制度、労使協調路線の労働組合の承認による企業内福祉の実現、ケインズ的な経済/金融政策、社会保障制度によって社会の安定が図られていたが、ネオリベラリズムはこれらのすべてを解体して市場原理の下に再編を目指すことになる。
たとえば社会保障制度を「既得権」、その受給者を「優遇」とみなし、生活保護を過剰に敵視するのは、貧困に対する罰則と社会的排除の言説がもたらされ、政治的に動員されます。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは後期の著書『性の歴史Ⅰ 知への意志』の中で、生ー政治(biopolitique)を資本主義的生産と国家の諸制度に適合した身体への自己/他者の統治の論理と述べていた。
ネオリベラリズムの下で、様々な権利が剥奪された労働者を、労働の場につなぎ止めておくための規律/訓練(フーコー)の論理としては、この社会的排除の言説が動員されているといえる。
■国家/統治権力の拡大
かつて、フーコーの言説は「福祉国家批判」として受け取られていた。
だが今日、その見方は誤読である。
むしろネオリベラリズムの下でこそ、国家の権力は拡大しており、フーコーの言説はネオリベラリズムの権力に対する批判として、見事なまでにその権力構造を言い当てている。
サッチャーは「社会は存在しない」といい、国家の他には市場があるだけの世界を構想していた。
ネオリベラリズムの下は、自由の領域が拡大するかのように思われていたが、現実には国家の権力は拡大する一方であった。
ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で描き出したように、近代以前の刑罰が報復や見せしめという性格を強く持っていたのに対して、ジェレミー・ベンタムは更生刑を中心とした刑罰制度にあらため、ヘーゲルは罪の重さにと刑期や罰金の金額などによって罪の償いとみなす数量換算で考えていた。
だがネオリベラリズムの刑罰に対する考え方は、予防を中心としたものになっている。
そうした予防犯罪論の下で、人種、性、社会階層、文化的嗜好などによるプロファイリングの導入につながり、つまるところラベリングにつながっている。
分かりやすくいえば、マジョリティの規範から逸脱した人々に対する情報へのアクセスや行動に対する規制の論理につながるということである。
さらに監視カメラによる人々の行動の監視、インターネット規制、性風俗に対する摘発強化と数量規制、表現規制をもたらしている。
一時期、日本でも議論されたブロークン・ウィンドウズ理論という、微罪摘発が重大犯罪を防止するとの理論もその典型例である。
つまり、ネオリベラリズムの国家においては、社会の不安定化と治安悪化をもたらすので、プロファイリング、ラベリング、監視社会、規制強化をもたらす予防犯罪論が中心となるということである。
そして監視社会や逸脱行動に対する規制に対する反対論は、ネオリベラリズムによる「市場化」への再編と不可分の一体である。
■生ー政治と「リベラル」な支配の拡大
さきに取り上げたフーコーの「生ー政治(biopolitique)」は、大学の現代思想などの講義では、「近代の医学的知見にもとづく、人々の「健康」を軸とした統治技法」と解説され、予防医学や飲酒、喫煙、メタボリック診断などによる節制の強要などが具体的なケースとしてあげられることが多い。
だがこの見方は、生ー政治の一面しか見ていない。
フーコーによる統治技法は医療、監獄、セクシュアリティに大別され、知(savoir)、権力(pouvoir)、身体(corps)による/に対する統治技法として展開されている。
医療は狂気と臨床医学、監獄には刑罰制度も含まれ、セクシュアリティには教会の告解制度を通じた「性の語り」も含まれる。
生ー政治についても、『生の歴史Ⅰ』の中では、人々は「人口」などの統計的に数値化された存在として把握され、その上で国家の諸制度と資本主義的生産に適合した身体への訓育として述べられている。
つまり生ー政治とは、近代における、ニーチェが「畜群の群れ」と述べたような、均質化された匿名の群衆としての人々に対する、身体への統治技法と考えられる。
そしてネオリベラリズムの権力論に対してフーコーの生ー政治の概念からとらえていく見方としては、酒井隆史『自由論』(青土社)や渋谷望『魂の労働ーネオリベラリズムの権力論』(青土社)は先見の明があり、達見すべきものがある。
だが両者とも、ネオリベラリズムの予防犯罪論や生ー政治について、パターナリスティックな規制強化論など、新保守主義的な権力論だけをとらえた分析であり、それでは生ー政治が単なる「管理社会批判」として理解されるだけである。
ネオリベラリズムの予防犯罪論的な規制強化や、生ー政治による訓育は、一方にはパターナリスティックな規制強化が推進されるだけでなく、より「リベラル」に推進するための言論装置として、PC(ポリティカリー・コレクトネス)が活用されていることも見落とすべきではない。
むしろ人々が予防犯罪論的な規制強化や生ー政治による訓育を積極的に受け入れている背景には、後者の側面が大きいといえる。
具体例をあげれば、近年、顕著に見られる傾向として、表象と実体の峻別なき批判がみられる。地下鉄のポスターや、ニューヨークの美術館に展示されたバルテュスの絵画に対する撤去署名が集まるなど、直接には性的な表現ではないのに、性的なまなざしによって「性的なメタファー」と解釈される図像が抗議の対象となる事件が起きている。
しかも、こうした動きには、3・11以降に社会運動に参加するようになった人々も、多くが規制推進の側におり、その中にはコミック規制に反対する人々に対して性的な嗜好や属性をあげつらってヘイトスピーチを展開するような「リベラル」が多数存在することも付け加えておこう。
あるいは「AVの強制出演」に対する防止策が、AVに対する規制強化につながり、むしろAV出演者も含めてAVの制作現場で仕事をする人々の権利を脅かしているとの指摘がなされている。セックスワーカーが健康や安全な環境で働ける活動を支援する人々や、元AV女優でこの問題にAV業界の改善という形で取り組んでいる方々から、そうした批判の声があがっている。
あるいは#metoo運動に見られるように「セクシュアル・ハラスメントの定義拡大」も、確かに性犯罪に対する抑止や救済は必要だが、そうした規制推進の言説装置として動員されている側面もあることはふまえておくべきである。
フランスの女優カトリーヌ・ドヌーブが#metoo運動に疑義を呈したところ、メディアや一部のラディカル・フェミニストらによる「魔女狩り」さながらのメディア・リンチに遭うなど、パターナリズムが行政/警察的な規制であるのに対して、リベラル/PCの規制は大衆暴力である点でより危険度が高いといわざるを得ない。
もっと古くは1993年に施行された暴力団対策法(暴対法)の問題も指摘できる。
暴対法は、指定された暴力団の様々な活動を規制することで暴力団の活動を事実上封殺する法律だが、むしろ組織によって統制されていたアウトローが街に野放しになるだけであり、むしろ暴対法以降に誕生した「半グレ」と呼ばれる愚連隊が活躍する結果をもたらしているだけである。さらに暴排条例や反社会勢力排除の動きは、人権概念が近代のイデオロギーにすぎなかったことを立証させているだけではないだろうか。
■「抵抗」の言説
ネオリベラリズムの権力を保守がパターナリズム、リベラルがPCによって支えている構図は、ひとつには民主主義と近代市民道徳は、ユダヤ=キリスト教を俗化させた「ルサンチマン」に根ざしたものとする、ニーチェの指摘をあらためて想起させるものである。
そしてがフーコーの見方からすれば、政治的立場に関わらず、総体としてのエピステーメーつまり思考の体系を支えていく動向といったものを見据えて批判的に考えて行くことが大切である。
たとえば狂気が「非理性」として排除・隔離の対象とされ、18世紀以降には精神医学によって治療対象となった背景には、近世から近代にかけての知の編制があり、かつ更生刑を中心とした刑罰制度を提唱したジェレミー・ベンタムは、「犯罪者の人権」を唱えた先駆的な人権主義者である一方、パノプティコンにみられる一望監視システムの監獄制度を考案した、監視社会の先駆者でもある。
ゆえに、現在起きている様々な規制の動きに治して、リバタリアン的ないし「リベラル」な主張によって展開することは、私の見方では、個別反対論にすぎず、問題をその背景から含めてトータルに考えて行くことには限界があると思う。
19世紀後半、「他者危害の原則」や「愚行権」という考え方で個々人の自由な行動に対する規制を批判していたジョン=スチュアート・ミルは、「慣習の専制」という考え方で近代の大衆社会に批判的であり、民主政治に対しても普通選挙制を批判して有識者に対する複数投票制を主張していた。そして福祉国家的な社会改良主義者で、英国の労働党の母体となるフェビアン協会に理論的裏付けを与えた論者のひとりとされている。
ネオリベラリズムの国家で現実に起きている事態とは、先進資本主義国の内部で少数派と多数派の内戦が起きているということである。
少数派とは、ネオリベラリズムの権力の下で逸脱=排除される人々のことであり、多数派とは自分たちを「普通の市民」だと思い込み「浄化された空間」を求める人々のことである。そこには保守/リベラルの区別はない。
その上でいうなら、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリが「欲望する機械」という概念で述べたように、資本主義の生産の論理は、「欲望する機械」としての個々人の身体にまで内面化しているともいえる。
「反緊縮」の経済政策を考えて行く上で、上記の問題をも射程に入れて「反ネオリベラリズム=マルチチュードの抵抗」として総合的に理論化しつつ展開して行く必要があると考えている。
