以下は、一ヶ月以上にFacebookにアップした記事ですが、こちらのブログにも再掲することにしました。
3月18日(土)の午後、大阪大学中之島センターにて、SWASH主催の講演会「セックスワーカーの安全、健康、権利――オーストラリアとアメリカの運動から」を聴いてきました。
SWASHとは、正式名称をSex Work and Sexual Healthといい、性風俗業などで働くセックスワーカーの健康や安全について活動をするグループです。
その講演会の質疑応答の時に、ある参加者がこのような質問をしていました。
「あるセックスワーカーが、自由意志でその仕事を選んだといっているが、セックスワーカーをはじめた動機には、生活のためにお金が必要ということだった。それは自由意志と呼べるのだろうか?」
というもので、それに対する講演者の回答は、次のような内容でした。
「本当はセックスワークをやりたくないとか、他の仕事がいいという場合なら、他の仕事を探す方向で考えます。複雑な問題を複雑な問題としてとらえ解決する」とのことで、その回答には、私も同感です。
セックスワークをめぐっては、一方にはセックスワーカーの自由意志によるものなら認めて合法化すべきとの考え方がある一方、1980年代以降、主にラディカル・フェミニズムを中心に、「社会関係の下では暗黙の強制によるものがある」から自由意志によるセックスワークなど存在しない、あらゆるセックスワークは強制売春だとする否定論があります。
自由意志をめぐる問題は、近代哲学の中で長い間議論になってきたことです。
それは決定論と自由意志論との対立から出てきた問題でもあります。決定論には、ひとつには神義論(世界のあらゆる動きは、すべて神の計画によるものとする考え方)と、もうひとつには機械論(世界のあらゆる動きは、すべて偶然によるものとする考え方)があります。そうした決定論者に対して、人間の行動に自由意志はありうるのかという問題意識によるものです。
そしてドイツの哲学者イマニュエル・カントによる人間観は、自由意志によって自己決定しうる自由な主体とするもので、いわば近代の人間観のもとになっています。
ただしカントは、人間の認識能力には限界があり、様々なアンチノミー(二律背反)に陥るとの問題も提起しています。
また、「自由意志によって自己決定しうる自由な主体」としての人間の精神とは、「無意識のエス(es=それ)」によって支配された客体にほかならないとの見方が、オーストリアの精神分析学者ジークムント・フロイトによってなされています。
もちろん人々の行動は、様々な社会関係のネットワークの中で、あるいはフランスの現代哲学者ミシェル・フーコーが述べたように、ある時代や社会の中でのエピステーメー(認識系)、あるいは「ミクロな権力関係」にも規定されていますので、そうした関係性から逃れたような意味での「自由意志」などありえません。
だが、このことは、あらゆる人間の行為に言えることであって、セックスワークだけに特有な問題として、セックスワークを否定する論拠にはなりえません。
このように考えた場合、自由意志とは相対的な概念であって、純粋無垢な意味での自由意志が存在するわけでもなければ、社会関係による規定性があるからといって、そこに自由意志が介在する余地がないとも言いきれないと思います。
そもそも、「自由意志」によるものだから肯定して、「社会関係の下では完全な自由意志など存在しない」から否定するというのは、単純化すぎるし論理が飛躍しています。
この問題は、すでに1997年には、『売る身体/買う身体』(青弓社)という本の中で、田崎英明氏が述べていることなのですが、ことセックスワークやポルノグラフィをめぐる問題になると、なぜか過去の議論が「なかった」かように忘却され、いまだに同じような議論が続いているという問題があります。
とくにセックスワークやポルノグラフィに否定的な人ほど、この種の議論を知らずに活動を始めたりするので、厄介です。