3週間ほどまえに、開設したテラの会代表ミニブログ。

つぶやき、といってまあツィッターみたいなものです。

それを、やっぱり閉鎖しました。



というのはテラの会代表は、なみなみならぬ毒舌家。

何にでも噛みつき放さないところはスッポン顔負け。

その上、わざわざ人がドキッとするようなことを、つぶやく。



こんかいもうダメ、と思ったのは、



「一年の三分の一が過ぎた・・・死ぬ準備万端」

というつぶやき。



も~う閉鎖決定です!



そんなのをお知り合いなんかが見たら、心配で

心配で眠れなくなる。



うえのつぶやきは、つまり長~~~いひとことを、

みじか~~~くしてるから、誤解されるの。



つまり、



「ああ、一年の三分の一が過ぎたなあ。早いものだ。

その一年を、自分の一生というものに、あてはめると、

もう三分の一以上は生きてきたなあ。



必ず、人は生まれたら死ぬものだし、自分も、そのときを迎えるための、心の準備をしないとな。


もう準備万端だ、と思えるような、あたたかい、五月だ」



といってるわけです。



これを、上の長文から、「一年の三分の一が過ぎた」という部分と、「死ぬ」という部分と、「準備万端」という部分を、ぜんぶつなぎあわせたら、



「一年の三分の一が過ぎた・・・死ぬ準備万端」となる。



これを見た人は、この人もう、ぎりぎりなんだ、とか、

太宰治みた~いとか思う。



とにかく、いいイメージじゃあない。



だから閉鎖です!

なにせ、テラの会代表は、それはそれは、長くて長くて

くどくてくどくて仕方ないような文をかくのが、もう

好きで好きで好きでたまらない人なんだ。



それは彼のメインブログを見れば、一目瞭然です。



そんな人に、つぶやきは、やっぱり合わなかったことが、はっきりしました。



かなり遠い例えでいうと、



「あなたや私をふくめ、人間の祖先は、類人猿であるオランウータンと同じと考えられており、いつかの時代に分化したと考えられる。かつて人間の祖先は、アフリカの木の上で暮らしており、その森が自然環境の変化により後退したことにより、草原で暮らすようになった。それが二足歩行をはじめたきっかけだといわれている。」



という長い文を、つぶやきに変換して、



「あなたの 祖先は オランウータン・・・草原で歩行」



にしたみたいな・・・



何か、すっごく、「違うぞ~!」と猛然とムカムカする。



つぶやかない方がいい人、というのも、世の中にはいるのです。




のびのびボランティア紀行



なんだ~と思った人もいるかもしれない。

この写真は、ハノイから帰国するときによった

バンコクで、衣服を支援したときのもの。



ぼくたちは、できるかぎり低予算で活動をしてきたので

泊まるところは、ゲストハウスか、それに毛がはえた

ようなホテル。



ゲストハウスといっても、ヨセミテ国立公園の

ゲストハウスとか、そういうのをイメージしては

間違いになる。



ふるい言葉でいうと、木賃宿です。



そんなバンコクのゲストハウスで働くのは、

ミャンマー人の人たち。



タイでは、ミャンマー人やカンボジア人を雇うとき

政府に一年につきいくらと、税金を払わなくては

ならないそうで。



だからこのミャンマー人たちは、雇い主にその

税金分を給料から引かれていて。



だから生活は、ぎりぎりの、ちょんちょん。



ミャンマーの家族に仕送りもする。

上の写真の女性は、夜勤をしていて、夜9時ごろから

朝の8時くらいまで働いていた。



アジアの人も、みんなたいへん。



だから衣服を「持っていっていいですよ」

とあげると、とーっても喜んでくれた。




のびのびボランティア紀行



みんなマジ真剣に選んでた。



「これは、あの子に合うわぁ」とかいってるのかな。



そんな笑顔に支えられて、がんばってきたぼくたち。

あのスマイルも、このニッコリも、忘れられない。



”人生とは、思い出だ”というのは、センセイのことば。

そうなのかもな~と、しみじみ思う。



たくさんたくさんの人に出会った、ゆるゆるハノイの

旅も、終わりに近づいた。



(もうちょっと、つづく)



のびのびボランティア紀行



ゆるゆるハノイといいつつ、ホーチミンです。

昔はサイゴンといいました。

でもベトナム戦争がおわったあと、ホーチミン、と名前がかわったのです。



ホーチミンってどういう意味?

それはベトナム統一の父、”アンクル・ホー”の名前なのです。

ホーおじさんは、ベトナムの教科書に必ず出てくる偉い人。

太極拳の達人だったみたい。



ベトナムのお金にも顔がのっています。

ちなみに、昔ベトナムの英語の教科書を、見せてもらったことがあります。



けっこうゆるくない内容でした。



「ベトナム人は、インドシナ戦争において、ホーおじさんのもとに結束し、ディエンビエンフーでフランス軍をやぶったのである」



とかを、英語でよみます。



ディスイズアペン、とか、あんまりはやらないみたい。

さて上の写真ですが、何をしているのでしょうか。

それは、慰霊をしているのです。



ホーチミン市の川で、ベトナム戦争でちった若いベトナムの兵隊さんのため、お祈りしたのです。



雷がバチン! バチン! と鳴って、すごかったです。

そのあと、船着場にあるカフェで、例によってこゆ~いベトナムコーヒーをいただきました。



それがなかなか雰囲気のあるカフェで。

川岸に、ずらりと椅子とテーブルがならび、もちろんオープンカフェ。川をいきかう大小のボートを眺めながら、おいしいコーヒーを飲めるという風情でした。



お会計のときに、お姉さんに、「カーモン(ありがとう)」といったら、へんな顔をされました。



どうもハノイとホーチミンでは、ベトナム語の発音が違うみたいです。あ~ややこしい!



街を歩いていると、「韓国人かい?」とよくきかれました。ベトナムでも韓流スターが大人気でした。



次回はホーチミンのきままな日常をお話しします。

ゆるくないハノイと違って、とってもゆるゆるのホーチミンでした。



(つづく)



のびのびボランティア紀行


じっさいは、全くゆるくない、ハノイという街を、ゆるゆる

えがいてきたこのシリーズ。



ゆるゆるやるのって、難しいなあと、実感。

それでも、何とかふんばって、ゆるく行きます。



ハノイでようやく一息ついた私たち。

ホテルの部屋で休んでいると、ドアがノックされた。



コンコン。



「は~い。どうぞ」



入ってきたのは、若い兄と妹だった。

2人で田舎から出てきて、ホテルのベッドメイクや、

掃除の仕事をしているのだとか。



いろいろと話していると、仲良しさんになっちゃった。



2人ともとても真面目な人で、きっちりと仕事をする。

見ていて、何かいいことをしたくなった。



プレゼントできるものが無いかな、とバッグを見てみる。

すると、テディベアのぬいぐるみが!

それから、Tシャツもあった。



妹さんのほうに、



「これ、いりませんか?」

とぬいぐるみを見せると、ちょっとはにかんで、嬉しそうに

受け取ってくれた。



センセイが、お兄さんの方にTシャツを渡すと、とっても

喜んだ。



田舎から出稼ぎに来ている人は、学校に通っていたりして、

とても苦労してる。



Tシャツ一枚かうのも、かなり悩むくらい。



だから、その一枚のTシャツが、とても嬉しかったみたい。

たぶん、外国人の私たちからだったし、誰もみていない、

部屋のなかだったので、素直に受けてくれたんだ。



2人から、ベトナム語で”こんにちは”を教えてもらった。



シンチャオ、という。



もし自分が男性で、相手が年下か同い年くらいの女性なら、「シンチャオ・エム」



それにこたえて、年下か同い年の女性が、男性にいうのは「シンチャオ・アイン」



ホーチミンの方だと、”チャオ・アン”、とか、かなり省略されて言われるみたい。



チャオってなんかかわいい。



NGになってしまうのが、若い女性に、”チャオ・チ”ということ。

これを言うと、かなりムスッとされる。



「わたし、そんなに老けて見えるかしら?」



みたいな。



はじめてベトナムを旅したとき、”チ=お姉さん”と誤解していたぼくは、会う女性、会う女性に、みんな「チャオ・チ」といって、ひんしゅくを買った。



途中で気がついて、「チャオ・エム」というようにしたら、女の人たちは、百発百中で、ニッコリ笑って、「チャオ・アイン!」といってくれるようになった。



そんな心理は万国共通なのかもね。



さてハノイともお別れのときが来た。

次の日は朝早く、空港へ行かなくちゃならない。



(つづく。)










のびのびボランティア紀行


バッチャン村の小路。

まっすぐな道がずっとつづいてます。

ちょうど真四角のような村のかたち。



日本にはあんまりないかも。



その中には、陶芸やさんがたくさん。

いまではもう、日本でもすたれてしまったような、

原始的な陶芸法も、まだ行われています。



とっても興味深いです。



たとえば、こんなつぼも、バリバリ新製品。





のびのびボランティア紀行


なんか縄文時代の土器みたい。

この絵というか、きざんだり、こねたりしてできた

模様が、とってもクール。



ひとつのつぼが世界って感じです。



誰がこんな模様を考えたんだろう。

フシギ。



気さくな村の人たちの中に入って、衣服を渡しました。

窯元によっては、とてもフレンドリーなところもあり、

また、職人かたぎの、ちょっと近寄りがたいところも

あります。



バッチャン村に行く人は、仕事の邪魔にならない程度に、

村の中にはいって、ひとびとと交流してみると、

楽しいですよ!



さて衣服も渡しおえ、ふたたびバスの停留所に

もどりました。



さいごに残っていたサンバイザーを、

「それおくれ」という物売りさんに、渡しました。

すぐにかぶって、この笑顔。





のびのびボランティア紀行


スマイルのすてきな方でした。



バスが来て、バッチャン村ともお別れ。

また来ることがあるのかなー、と思いつつ、さよならしました。



バスの中は、中学生や高校生が乗っています。

ハノイへは、またひたすら田んぼばかりの中を

帰っていきます。



帰りついたときには、もう午後4時ごろでした。



(つづく、きっと)







のびのびボランティア紀行



ぷか~っと食後の一服をする、バッチャンの陶工青年。

とてもおいしそうですね!

タバコと、お茶が、ここの気晴らし。



何だか日本とよくにてる?

ぼくも一服いただきました。

ものすごく濃くて、あたまがくらくら。



「ほれ、茶をのみな」

と口のいがいがを直すために、お茶ももらいました。

小さなおわんで飲むんですね。




のびのびボランティア紀行



日本の衣服を渡すと、「あらー、ありがと」みたいな感じで

もらってくれました。




のびのびボランティア紀行



「私にくれるの?」

と驚く女性。



ええもちろん。あなたにですよ~!

日本のみなさんから寄付していただいた、衣服です。



バッチャン村の人たちは、みんなかいがいしく働いていました。

まだ写真があるので、次回紹介します。



(つづく)

バッチャン村に入り込んでみた。

なんだか、ゆるゆるした村。

時間がとまってるみたい。




のびのびボランティア紀行



お昼になると、フランスパンのサンドウィッチ屋台が出る。

そこで一息ついた。

サンドウィッチを買って、食べていると、おばさまたちが

ぞくぞくとやってくる。



身振り手振りで、「日本の服です、プレゼント」

というと、何とか伝わったみたい。



さすがおばさま。とてもノリがいい。



「これ似合うかなー」とベトナム語できかれたり。




のびのびボランティア紀行



けっこうおしゃれな服もたくさんあった。

パンを買いにきたお客さんたちが、いろいろと探して、

もっていく。



若い女の子がきたので、ポーチみたいなのをあげた。



のびのびボランティア紀行



やんや、やんやの衣服支援。

昼さがりの、ぽけ~としたムード。



みんな衣服をもって帰ったので、そろそろ、と腰をあげて、

村の中を歩いてみることに。



まあいろんなスタイルの焼き物工場や、工房のあること。

みんな、ベトナム人らしい勤勉さて、ばりばり仕事をしてる。



なんかぼくの田舎みたいなあ、と思う。



ふらふらとぶらぶらしてると、ひとつの工房で、絵付けを

している人たちがいた。



ふと目が合うと、「見ていきなさい」と手招きされた。

いいんですか? じゃ、遠慮なく・・・




のびのびボランティア紀行



なかではベトナム娘さんたちが、絵付けの仕事にいそしんでいた。



「みなさん、日本の衣服をプレゼントするよ」

というと、キャーッとよろこびの黄色い声。



いいね、ノリがいい。



そして一枚ずつ、衣服を選んであげた。



(つづきます)

ベトナム、バッチャン村を訪れました!




のびのびボランティア紀行




どうしても、言いたくてうずうずするダジャレが、頭をぐーるぐる。

何だか分かるかな。

きっと分かるだろうな。



言うしかない。大きな声で!




バッチャン村の、婆っちゃん




・・・いわなきゃよかった。

脳波がゼロ、ピーといってます。



ともかくバッチャン村は焼き物で有名。

その中に入って、衣服を配ってみることに。



まず手はじめに、バス乗り場の近くの、三輪タクシーに

のっかっていた、男の子。



近づいて、ミニカーを見せてみた。



「これ、プレゼント」



男の子は、びっくりしつつ、いりませんっ、と首をふる。

でも、明らかに目は欲しいと言ってる。



しばらく様子を見ていると、近くにいた、おばあさんと

お母さんのところに走っていった。



それでゴニョゴニョ話してる。



たぶん、



「あのミニカーもらっていい?」



「うん? あー、いいよ」



みたいな感じだった。

それで走ってもどってくると、こんどは「ちょうだい!」と

にっかにかのスマイル。



「いいよ」とひとつあげた。

すると、



「もう一個ちょうだい!」だって。



おお、なかなかいい根性しているね、ともう一個渡した。

男の子はよろこんで「ありがと!」と走っていった。



なかなかで出しのつかみはオッケー。

バッチャン村での支援は楽しくなりそう。



(つづくと)








ベトナムの首都ハノイ。

支援も慰霊もひととおりやり。

ホテルで疲れをとるのもつかの間。



せっかくハノイにいるのだから、少し遠出したい。

そんな気分でむずむずして来た。



ハノイから一日で、行って帰れるところ・・・

ベッドに寝転んで、ガイドブックをみた。



陶芸の村、というのがある。

バッチャン村といって、とても昔から焼き物をつくっているとか。



そこまで市バスで2時間ほど。



ベトナムの市バスに乗ってみたかった。

次の日行くことに決めて、ゆっくりスリープ。



朝。

ぴちゅぴちゅすずめが鳴いてます。

かんけいないですが、タイ語で「すずめ」というと、

間抜けという意味になるらしい。



確かにすずめは間抜け。

ガラスの戸に頭から激突したりする。

お前何百年ガラスみてるんだ~と、いってもムダです。



それた話をもどすと、ロンビエン橋近くのバス停から、

バッチャン村へ向けて出発!



ハノイのバス停はパワフル。

座りこんでサトウキビを売ってる人もいる。



ガイドブックでバスの番号を確認して、のった。

バスはロンビエン橋を渡る。

かなりのギリギリ感がある。



バスが通るには、ちょっと狭い橋。

下は赤茶色のホン河。

落ちたら終わりだなーとか思いながら、思いのほか気分はうきうき。



適度なギリギリは、うきうきのスパイス。

今も昔も危ないオトコがもてるのは、そういうわけでしょう。



橋を渡るといきなり田舎。

牛がいる。井戸がある。

のっている人たちは、だいたい高校生とか。



ぼくみたいな旅行者も、ちらほら。

終点がバッチャン村なので、ぼけ~とのってていい。

らくちん。



まだ日本から持ってきた衣服が残っていたので、

バッグに入れてきた。

バッチャン村であげられるだろう。



外はぽかぽかいい天気。

というよりかなり暑い。

ハノイの外は、ほんとに何にもない。



このへん東京などとは違う。

東京から、ほんきで何もないところに行こうとしたら、

かなり車で走らなくてはだめ。



ハノイだと、橋を渡ればもう大草原。

ちょっとしたピクニック気分です。



さてバスはゆっくり走り、ようやくバッチャンらしいところに着いた。



バッチャン村は、周り一面の田んぼの中に、赤レンガで

まわりを四角く囲んだ、ベトナムの田舎の村によくみられるつくり。



中国風なのかな。

日本のばあい、村の周りをぐるっと塀で囲んだりは、

あまりしない。



ここが村! とハッキリ分かる感じも、日本だとない。

自然とゆる~くつながっている。



でもベトナムの村は、村! とはっきり自己主張してる感じ。

もっというと、村から、となりの村に行くのも、かなりの遠出になるみたい。



ずっと前、ベトナムの村にとまったとき。

何げなく村から出て、となりの村に行こうとした。

すると、おばさんが自転車で猛追してきた。



「アンタ! やめなさい」



鬼のようなかおでいう。

よく分からないまま、村に帰ったのを覚えてる。

何ていうか24時間監視されてた。



自由の国、日本から来たぼくには、よく分からない感覚だった。



それはおいといて。

バッチャン村は、わりと旅行者も訪れるので、そこまで

閉鎖的じゃなかった。



バスを降りて、さっそく、物産屋の前にいた男の子に

ミニカーをあげようと声をかけた。



(つづくよ、どこまでも)










(慰霊と支援活動をおえ、おなかも満たしたテラの会。

となりのふしぎな建物に入った)



そこは小さなお堂のようなところで、中はそんなに

広くない。



お世話がかりのおじいさんが、つねにいて、訪れる人を

ねぎらってくれる。



はじめは何なのか、わからなかった。



お堂の真ん中に、大きなひらべったい御影石が

安置されている。



よくよくみると、人の名前が、びっしりと刻まれている。

1900年代のはじめから、1990年あたりまで、ベトナムの

かかわった戦争で亡くなった、ハノイのこの町内会の

若者をたたえる慰霊碑なのだ・・・



夜8時くらいまで開いていて、いつもお線香の煙が

たっている。



わたしたちが、



「慰霊させて下さい」というと、

せわやくのおじいさんは、たいへん喜び、線香とろうそくを

くれた。



その石碑を見ながら、ベトナムのたどってきた、ながい

ながい戦争の道を思って、胸がつまった。



みんな亡くなったのは、当時の20代から30代の若者。



いま、経済発展のつづく、平和なハノイをつくるため、

命を捧げた英雄たち。



毎日このお堂をお参りする子どもたちは、

きっと、もしお国にいったん事がおこれば、いつでも

武器をもって兵隊になる覚悟が、自然とできるんでしょう。



お兄さんも、お父さんもやったこと。自分もやるのが

当然だって。



そして誇りをもって、戦場へおもむくのでしょう。



私はそれを、ベトナムの美風だと思います。

そしてそんな美風をつくるのに、日本もちょっぴり関わって

いるんですよ。



第二次世界大戦のとき、日本は南部仏印、いまでいう

ベトナムを攻めとりました。



そのことがアメリカやイギリスの気をさかなで、太平洋戦争

開始の要因になったともいわれます。



ベトナム進駐した日本の兵隊さんたちは、ベトナムに独自

立国を勧めます。そのときに、近代的な軍事訓練を、

ベトナム人に伝えたのが、日本の兵隊さんたちなのです。



その軍事訓練の基礎は、みゃくみゃくと、今もベトナム軍の

基礎となっています。



知っている方には耳タコでしょうけど、第二次世界大戦の前、

アジア全域は、日本と日本の統治領、そしてタイを含め、

残らずといっていいほど、数百年にわたる欧米の植民地

になっていました。



いつかその状況をひっくり返したい、と心では思っても、

実現するのは、夢のまた夢、といった状況でした。



その状態をいっぺんさせたのが、日本の東南アジア進行でも

あったのです。



もちろん、そのころヨーロッパではヒトラーのドイツが

破竹の勢いで大暴れしていたので、イギリスやフランスなど

アジアに植民地を持つ国ぐにも、なかなかアジアの方

まで手がまわらかったというのもあります。



太平洋戦争中や、戦後にすぐ、独立宣言をした東南アジアの

国々は、ふたたび襲ってくる、ヨーロッパの国ぐにと、よく

戦いました。



そして、たくさんの犠牲を払って、独立をまもり通したのです。



これは20世紀の新しい神話といってもいいでしょう。



そんな戦争に明け暮れるなか、ベトナムのハノイの、

ちっぽけな町内会からも、若者が戦争に出て行った。



そのただの一人の犠牲も忘れまいと、こうして町内会に

ひとつずつ、慰霊施設があるのです。



ベトナム人の誇り高さ、つよさの源は、こういうところに

あるのかもしれません。



(つ~づく)