のびのびボランティア紀行




朝。

海がめでも泳いでそうな海。

そんな砂浜は、地元の人で

いっぱいだ。



リゾートホテルの

プライベートビーチもあるけど、

その同じビーチに、

現地の人の海水浴場もある。



そこへずかずか乗り込み、

えいやっと衣服のぎっしり入った

バッグをおろした。



「イニ ウントゥックム ダリ ジェパン」

これ、日本から、あなたにどうぞ。



インドネシア語でいうと、

ひとりふたりと集まってきた。





のびのびボランティア紀行



その日は日曜日で、

学校は休みだったよう。

子どもたちもたくさん来た。




のびのびボランティア紀行


バリの子どもは踊る。

靴やぬいぐるみを手に、

喜びのダンスだ。




のびのびボランティア紀行


 

雰囲気は少し伝わるかな。

朝のさわやかーな砂浜。

そこに明るい笑い声。



テラの会理事もスマイルです。




のびのびボランティア紀行



足に合わせてサンダルを

はかせる。



子どもの足は

すぐ大きくなる。



日本で売られるサンダルは、

インドネシアの市場のものより

だんぜん、持ちがいい。



だから、はけなくなったら、

誰か下の子にあげるだろう。




のびのびボランティア紀行



なかなか子どものおもちゃまで

お金のまわらない現地の人たち。



ぬいぐるみや、おもちゃは

子どもの心をひらく。



大人もよろこぶ。

砂浜を少し歩くだけで、

ショルダーバッグいっぱいだった

衣類などが、すぐになくなった。



なくなれば、早いもの。



ひと仕事おえ、

すがすがしい気分で

ホテルにもどる、

テラの会一行だった。



(つづく)




サヌールでも大人気の日本の衣服


のびのびボランティア紀行
サヌールの砂浜で慰霊。某国みたいに国旗をうばう輩はいなかった




朝のサヌール。

名も知らぬ小鳥が鳴いている。

そんななかで、慰霊。



爽やか。

海も透明度が高く、

その上波がたっていない。



まるでみがいた鏡のような

海面だった。



おごそかに慰霊は終わると、

後ろから声がした。



「何をやられていたんですか」



低くておもみのある、男性の声だ。



「はい、第二次世界大戦でなくなった、

バリ人、日本人、そして連合国の人のため、

慰霊を行ったのです」



というと、中年男性は、うなずいた。

ぼくたちは、地元の人に理解して

もらえた、と少しほっとした。



辻さんなど、その男性の手を

とらんばかりだった。



ぼくたちも、朝の光りが目に入り、

少しうるうる、きそうになっていた。



と、そのとき、男性の下半身に

目がいった。



・・・純白のふんどし。



そう、その男性は、朝のひと泳ぎに

来ていたのだ。



真っ白のふんどしの下は

もちろん、いわずもがな。



あえていうとするなら、

成人の秘宝がかくされていた。



海水でぐっしょりぬれているので、

しっかりそれが見える・・・



「コータくん! 

この人と写真とって!」



と辻さん。

中年男性は、口ひげもあり

ダンディーで、ぼくは言われるままに

写真をとった。



「この写真、私のホームページに、

ぜったいのせてね」



と念を押された。

こちらは写真をとりつつも

気づいていたが、純白ぐっしょり

ふんどしの下のものが、ばっちり。



かといって、感動している

辻さんの気持ちを壊すことはないと、



「わかりました。

必ず、でっかくのせます」



と答えておいた。



日本に帰り、現像された写真を

目にした辻さんが、



「これ、やっぱ、のせないで」



と言ったのは、言うまでもない。




(つづきますぶぁい)















のびのびボランティア紀行
さわやかな海と支援風景。ふつうダイビングとかするよな~。




サヌールはバリ島のリゾート地。

その中で割安のコテージに泊まり、

慰霊と支援をするテラの会。



まずは腹ごしらえと、

日本食屋に入った。



バリ島には日本食屋が多い。

それに味もそこそこ。

とくにマグロは、インドネシアの

マグロが、築地市場へ行く前に

バリに来る。



だから当然安くて、おいしい。

そうそう、だからバリではマグロの

料理がだんぜんおすすめです。



超豪華な刺身盛りが、

1000円前後で食べられます。



その代わり、お水を出さない店がある。

どういう了見でい、とぼくは思う。



たとえ飲料水が割り高とはいえ、

日本食屋は高級店と見なされ、

サービスチャージを取られる。



さらに政府からの消費税が

20パーセント近くつく。



楽しく飲みくいしたら、

出てきた会計表がやたら高い。

ふつうの観光客なら、それでも

「日本よか安いね」

で済むだろうが、こちらは

アジアの清貧ボランティア。



ちょっとでも高いと、必ずつっこむ。



「これさ、何で3人で180.000ルピア

のはずなのに、228.600ルピアになってんの?」



「サービスチャージ7パーセント、

消費税20パーセントです」



「・・・・・・」



税金が高いのは、ムッとくる。

ひどい店では、税だけで40パーセント

とられる(某スミニャックの日本料理屋)。



こんな思いをたびたびしてると、

イライラがたまる。



だから、ぼくは必ずインドネシア人向けの

店を見つける。



そうすれば、メニューは豊富で普通の値段。

税金もかからないで、飲み食いできる。



少し見た目が美しくないとか、

そんな程度。



見た目がどれだけきれいだって、

インドネシアのこと。



厨房に入ってみれば、

ぎょえーという状態なのは

知れたこと。



腹こわすときは、どこで食べても

こわしますって。



やっぱり、3人で食べて、50.000ルピア

(500円くらい)で、



「えー、こんなに安くていいの!」



と思いたい。

食事ひとつにもバトルがあるのだ。



(つづく)





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サヌールの海岸で。明日天気にな~れ!




いい加減なことは、いうものじゃない。

サヌールで、木の枝をふりまわし、

何をしてるか。



じっさい、現地の人にも、



「あれ、何?」



と何度かきかれた。

そのたびに答えにつまってたぼく。

甘かったと思う。



慰霊してます。



その一言で、どうかあとはご想像下さい。



さてサヌール。

上の写真の遠くにも見えてるけど、

リゾート地。



それもちょいお高めの。



ヌサドゥアあたりだと、ケタが跳ね上がる。

テラの会のとまったホテルは、

一泊300.000ルピアの

こ洒落たコテージだった。



クタで泊まったホテルが、およそ

200.000ルピア。

その違いを、どうか想像してほしい。

(できるわけないか)



要するにクタより少し高めの

コテージに泊まったってこと。



日本一売れているガイドブックに

そのコテージはのっていた。



直接電話して、2部屋とるから

まけてくれとせがみ、

受付の女性に「しょうがないわね」

と言わせた。



その女性、声からしてバリ人では

なさそうだったけど、英語がうまくない。

何者だろう? と不思議に思いつつ

行った。



果たしてついたコテージは、

サヌールの街の奥まったところに

あった。



広すぎもせず、かといって狭くもない。

ベストな大きさ。



何せそのときは、ひとりのレディーを

つれていた。

その方のためもあって、セキュリティーの

しっかりしたコテージにお泊めしたかった。



受付の女性、と思っていたのは

オーナーであった。



話していると、なんとポーランド人と

いうじゃあないか。



ポポポポーランド?



どこだっけ。何かドイツかフランスの

近くだったような。



鼻が高くて、目がくぼんでる。

にやっとわらうと、虫歯がのぞく。

若かった。



そのお年でバリのホテルのオーナーとは・・・

興味がわいて、根掘りは掘り質問した。



「私はイギリスで着物のセレクトショップを

やってたの。



両親がこのホテルはやっていたのだけど、

国に帰るから、あなたやらないって

誘われて。それではじめたけど、

もうからないわ~」



ということ。



イギリスで着物売ってる時点で

もはや五里霧中だけど、その上

こんなところでホテル業。



このお姉さんは、つつけばつつくほど

面白いぞ、と思いつつ、

サヌールの一日目は暮れていく。



(つづく)







のびのびボランティア紀行
サヌールの海岸で。衣服を渡しだすと、たくさん人が集まってくれた




サヌールはクタより東海岸沿い。

クタからだと、150000ルピアくらいで

ライトバンが出る。



だいたい1500円くらい。



サヌールに来たのは、

クタ以外のリゾート地で

働く人たちに支援しよう、

ということだったと思う。



そのとき(2009年5月)は

テラの会理事の辻さんも同行

いただいていた。



辻さんが来ていただけると、

荷物を飛行機にのせる量が

多くなって、助かる。



それだけではなくて

木村代表との話し相手になって

くれる。



これはけっこう大きい。



だいたい、事務局のワタクシと、

センセイの2人だと、旅の途中で一度は、

死ぬか生きるかという大ゲンカをやる。



これは私たちだけの話しではない。

2人で長旅をつづける男性は、

けっこうそういう意味わからない

険悪な状態におちいりやすい。



それには、お互いのやり方が

どこかでかみ合わない、というのもある

だろう。



あるいは単に、互いにへ理屈をこね、



「あんたのは、ただの、へ理屈!」



「へ理屈て、いう方が理屈っぽい!」



と言い合っているだけだったり。

あるときインドで出会った2人の

日本人男性が、えんえんと、

互いに刺し違えんか、という勢いで

いいあっていた。



何が問題だったかというと、

フランスでムスリム女性のスカーフを

禁止するのは正しいか、否か、だった。



そんなの別に、どうでもいいや~ん。

と第三者は思うのだが、二人にとっては、

まじ真剣。



そんな自分らを振り返るにつけ、

はっきり覚えているのは、フィリピンでの

大ゲンカ。



ケンカの発端は、一枚の派手なパンツだった。



朝方、少し機嫌悪そうにしてるセンセイに、

気分を明るくしようと、ぼくが派手派手な

ズボンをはいて、「どう?」ときいた。



それを何を勘違いしたか、センセイは

「(%&’#JFW)”=!バカ!!」

とひどい罵詈雑言だがバカというのは

はっきり言った。



そこからタクシー運ちゃんまで

巻き込んで怒鳴りあい、さしものマニラの

ひとびとも心配して、「大丈夫か?」

と声をかけてくれるほどだった。



だが。

原因は、派手な一枚のズボンだったことを、

2人はすっかり忘れていたのであった。



そんな、ムダな体力消耗をしたくない

ぼくには、辻さんの存在はかけがえのない

価値がある。



センセイが、面倒くさい”ぶつくさモード”

(よく入る。入ると、ひとのことを、クズだの、

チョ●だのと差別表現ばりばりで呼ぶ)

に入ると、



「あ、今辻さんが、来るっていってたから」

と話しをそらせる。



そうして辻さんとセンセイは、

大声でげらげら笑いつつ、辻さんが

市場で男物を買おうとして苦労した

話しなどを、楽しくするのである。



その間に、ぼくは次の計画を練る

時間ができる。



あ、サヌールの話しだった。

ごめんチャイナ。



明日から、サヌールの旅を、

お話ししまーす。



(つづく)


のびのびボランティア紀行
衣服支援をはじめた初期のころ。クタにいた物乞いの女の子たちに。




やはりアジアの空気を吸ってないと、

あたまが固くなってくる。



一ヶ月に一度、アジアか太平洋の

どこかで活動していた頃は、

もっとあたまが柔らかかった。



日本のような、ものにあふれた

国いると、感覚も麻痺してくる。



使いすてが当たり前の

消費文化にずっぽりはまる。



そして気がつくと、心がぱさぱさに

かわいている。



やはり、アジアに行かないとダメだ。

ぼくはそう思いなおした。



だから10月からの計画を

練り直ししている。



個人的な事情があって、

そう簡単にはまとまらないが、

うまくやれたらいいと思う。



フィリピンは、台風の被害で、

マニラをはじめとしたルソン島各地で、

被災者が出た。



彼らは何もかもなくし、

着る服ひとつに困っている。

できればそういう人のところへ

いきたいけれど。



バリの話しはおあずけで、

次の活動のことにあたまが

いってしまった。



次回から、もう少し順序だてて

バリを話すから。



どうぞよろしく。



(つづく)


のびのびボランティア紀行
バリの村で歌うセンセイ。虫の音もきれい




だいぶ、かっとばして、すいません。

バリの話しをしていると、あっちへとび、

こっちへとび、してしまいます。



もう少し、わかりやすく、

お話ししたいと思います。



今回は、バリ島の魅力について、

少しだけ、話させて下さい。



バリは、赤道直下の、火山の島。



気候は、一年を通じて、マイルド。

冬はありません。



タイなどと同じで、

暑い、とても暑い、のどちらかしかない。



だから、日本がゼロ度近くになる

1月や、2月に行くのがおすすめです。



というのは、冬のあいだは、

肌の汗腺がぎゅっとしまっています。



寒いから、熱を逃がさないように、

するんでしょう。



だから新陳代謝がにぶくなる。

血のめぐりも悪い。



そんなとき、常夏のバリ島へ行くと。



デトックス効果があるんです。

つまり、肌の汗腺が、ぶわっとひらく。

そして汗がだーっと出て、いっしょに

身体の老廃物も出て行く。



サウナに入るような感じ。



それも、歩いたりするなかで、

自然と行われるので、すっきり感が違う。



一週間くらいいると、

何もしなくても、カラダが

洗われた感じになります。



ぼくがおすすめしたいのは、

あえて観光しないバリの旅。



バリは、自然の宝庫です。

そうとう壊れてはきていますが、

それでも、ウブドゥなどの

山間部へ行くと、本当にきれいな

自然が残っています。



そういうところの、セキュリティーの

しっかりしたホテルやビラで、

3日間くらい、何もしないで過ごす。



海辺でスキューバや、ダイビングを

楽しむのもいいでしょう。



でも冬なんかに、いきなり海に

入ると、はじめは新鮮でも、

そのうち疲れます。



そこに詰め込み式で、観光に

出かけたり、何したりすると、

ぐだーっと疲れてしまいます。



一生に一回だけ、バリに来る、

という人なら、それでもいいかも

しれません。



しかし今は時代がかわり、

エアアジアなどの格安航空会社が、

バリ行きの安いチケットをたくさん

売っています。



だから1度ならず、2度3度と、

バリへ出かけるチャンスが、

誰にでも訪れたのです。



あえて、しんどい観光はひかえて、

豊かな自然の中でゆっくり過ごす。



すでにオーストラリアや、イギリスなどの

観光客は、そうした過ごし方のほうが

一般的になりつつあります。



冬の寒いときに、

じわっと汗をかくような島に

いられる時間は、それだけで、

価値があります。



そして体内デトックスをしっかり

やって、一日くらい観光して、

たっぷり余裕をもって帰国。



いかがですか。



無駄にお金を使いませんし、

あまったお金は、次にバリに来るために、

とっておけばいい。



現地の人は、とてもフレンドリー

ですので、ちょっとした会話だけでも、

旅の本当の思い出になります。



一種の湯治(とうじ)みたいなものかな。

温泉地に何日か滞在し、ただ温泉に

入る毎日だけで、健康回復をする、みたいな。



常夏の島は、川の音や、鳥の鳴き声が、

とてもみずみずしくて、

それに包まれて目が覚める朝は、

最高に気持ちいい。



紅茶をのんだり、バリコピを

飲んだりして、ゆっくり朝の時間を

すごしたり。



ほら、明日にでもバリへ行きたく

なりませんか。



お手ごろ価格のツアーが

たくさんあるので、夢ではありませんよ!



(つづく)


のびのびボランティア紀行
バリ島の戦没者墓苑にある、戦死者の名前を刻んだ記念碑。この中に、

確かに出身地「JEPAN(日本)」とある方が数名まぎれていた。




終戦で戦いをやめた日本軍人もいれば、

いろんな理由で、その後も戦いつづけた

人もいた。



一時期話題になった、横井さんなどのケースは、

決して珍しいものではない。



バリ島でも、日本軍武装解除で、

武器を全て捨てなくてはならない、

ということになった時。



大きな決断をして、日本軍の武器倉庫から

爆薬などを運びだし、そのままバリの

義勇軍に加わった人たちがいた。



その数およそ20名ほどだった。



その人たちは、日本軍から見れば、

「脱走兵」ということになる。



軍法会議にかけられれば、死刑は

免れない。



それでも、と危険を冒してバリのために

戦おうとした日本人がいたのだ。



そのことは、マルガ英雄墓地という

ところへ行けば、事実だと分かる。



インドネシア政府による、

バリ島の義勇軍の戦死者をとむらう

記念碑に、日本出身の方が

入っている。



まったくのバリ人となり、無名の

戦士として戦った。だから、名前の欄には、

「無名」とか、バリの名前が入っている。



そこで慰霊をするのは、木村先生の

大きな夢でもあった。




のびのびボランティア紀行




マルガ会戦と呼ばれるその戦いは、広いバリ島の

中部の、山間部で行われた。



近代兵器を備えた、オランダ軍と、

かき集めの武装しかない、バリ軍。



結果はバリ義勇軍の大敗。

700名ほどの隊員は、ほとんど全滅した。



しかし独立の火の手はむしろ

燃え上がった。



それから10年間、バリ人を含む

インドネシア人は、植民地を奪い返そうとする

オランダ軍と戦いつづけた。



そしてやっと、国際社会にその戦いを

認知され、国連の介入が入って、

インドネシアは名実ともに独立した。



バリ島の空港の名前は、”ングラライ”

といって、マルガ会戦の時の指揮官だった、

バリ人のングラライ将軍の名前から

きている。



そういうこともあり、日本と因縁浅からぬ、

バリ島。






戦争は悪いこと、しない方がいい、

という現代感覚、間違ってはいないと思う。



どうして遠い国の戦争なんかに

かかわって、命までかけたの?



日本に帰って、平和のために尽くした

方が、正しかったんじゃないの?



という意見も、あっていい。

それは認めた上で、当時の義勇軍に

参加した日本人の思いも、

汲み取る余裕があればいい。



義勇軍は英語でいうと、

”ボランティア・アーミー”



災害派遣ボランティアなどと、

かなり気持ちは近かったんでは

ないかな。



ぼくの勝手な推測だけど。



どうして?

とつめよってきかれれば、

確かには答えられなくても、

今これをやらなければ、

ぜったい後悔する、

という何かが

あった。



きっとそうだろうと思う。



現代の感覚から、

むげに否定していいものではない。



と、思う。



きりがないので、このへんに

しておくから。



(つづけさせて)





のびのびボランティア紀行


のびのびボランティア紀行

年のころ、20才そこそこ。「服ほしい!」といわれたので渡したヤングママ



バリ島に、どうして”慰霊と支援”

でくることになったか。



その話しをさせてくれ。



興味なくてもきいてくれ。

だって、こちらにとっては

大事な話しなの。



バリ島は、太平洋戦争のとき、

日本軍に占領された。



その前は、誰がいたかって?



オランダ軍がいた。

オランダは、ポルトガルやスペインの

海賊たちを、大砲ボカンボカン

うちまくって、つぶした。



そして、いちばん甘い蜜の吸える

インドネシアを、占領した。



そんな金のなる木をのがしはしない、

とオランダ軍を配置して、そのころ

8つほどに分かれていた、バリ島の

王様たちを、ひとりひとり、殺すか、

手なずけた。



私、ぜんぜん過激なこと、かいてない。

じっさいは、もっと怖ろしいことが

行われていたのだから。



それでオランダはながーいこと、

インドネシアの既得権益を

むさぼっとったわけだ。



そこへ現れたのが、日本軍だった。



これがめたらやたらに強い。

オランダ軍は、連戦連敗。

バリ島占領作戦なんて、

とうじの防衛大学みたいなとこでは、

「Cの成績もとれない」といわれた、

ずさんな強行作戦で、

それでもうんよくうまくいった。



バリ島では、日本軍は大歓迎だった。

それには、バリの古い言い伝えがあり、

東から黄色い肌のひとびとがきて、

われわれを奴隷から解放する、

というのがあったからだとも。



ともかく、日本軍は、バリにいた。

終戦のときも、軍隊の武装解除のときも。



そのころ、はっきりわかっていたのが、

オランダ軍が、失くした土地をとりかえそうと、

再び攻めてくることだった。



どうするインドネシア。

独立義勇軍は、つくりはしたが、

実戦経験のない兵隊たちに、

どうやって戦い方を教えるか。



そこで、日本軍から、脱走して、

バリ軍に入り、日本語の名前もかくして、

軍事顧問になった人が数十名。



もちろん、せめてくるオランダ軍と、

衝突した。そのなかで日本人が

どんどん死んだんだ。



それでも、インドネシアの若者に

戦いを教えたのだから、みんなに

尊敬された。



そうして生き残ったたった一人の兵士。

平良定造さんという。

もう亡くなられたけれど、宮古島の人

だった。



伝記本があるので、知りたかったら

読んで。元気が出るよ。



そんな、いわば、天皇陛下が、インドネシアを

いつか必ず独立させるから、そのあいだ、

占領させてほしい、という願いを果たせなかった

義理のため、インドネシアの土となった方がいる。



いまを生きる男子よ。

こういう男、かっこいいよな。



自分の命をかえりみず、インドネシアの

独立のために、死ぬまで戦ったんだ。



そして、できれば、その人のお墓か

何かにでも、手を合わせる機会が、ある

といい。



長くなったけど、テラの会がバリ島で

慰霊と支援をはじめたのは、そういう

きっかけ。



あとで、バリ独立戦争、最大の山場、

マルガ大会戦の跡地にある、慰霊碑の

様子を、紹介する。



この手の話題にくいついてくる、

さわやか男子は(歴女でもいいし)

次回は見逃さないでくれよな!



(つづく)



のびのびボランティア紀行
魚市場の近くのバラックで支援。漁民はたくましい。




大航海時代ってぜったい、楽しかったと思う。

とくにマゼランとか、海賊関係は。

(マゼランは海賊じゃない、偉人だという人は、

スペインの歴史通にきいてください。彼は

ほとんど海賊です)



なぜかって、地球の裏までお宝さがして、

タダ同然でそいつをしこたま仕入れ、

バカみたいな値段で王族貴族が

買い取ったから。



そりゃ楽しいでしょ。



ぼくも海賊ではないけど、

インドネシアやタイなど、いろんな

ところで、



”これ、ちょううめぇ”

とか、



”これ、ちょう面しれぇ”



といったモノにたっくさん出あった。

それが現地では、ほんとタダみたいなもの。

大量に仕入れて、売りさばいたら、

そりゃ楽しいよなと思う。



それは置いといて、とりあえず。



インドネシアには宝物が

たくさんあるけど、魚介類も

そのひとつ。



バリ島にも水上げ港があって、

ジンバランという。



そのジンバランには現地の市場があって、

漁師が自分で、とってきたものを売ってたり、

仲買人が、せりにかけたりしてる。



その市場のすぐそばに、

漁師とその家族が住む、

バラック小屋があるんだ。




のびのびボランティア紀行



そこは、家というより、避難所。

もしかしたら、他の島のひとびとが、

バリで漁をしたとき、一時的に、

とまるとこかの。



みんな着たきりすずめなので、

衣服を大量に渡した。




のびのびボランティア紀行



よこから手がのびるのびる。

みんな、ぬいぐるみや、文房具が大好き。

それに加えて、いきなり来た日本人が、

サンタクロースか大福様にみえ、

もらえるもんなら、なんでももらえ、

みたいにアクセルがかかっている。



もらったものに幸運がついてるような。




のびのびボランティア紀行



だから来ます、

みんなどんどん。


ここでも人の波にもまれ、

ビッグウェンズデーに乗りそこねた

サーファーみたいなズダボロの

われわれ。




のびのびボランティア紀行



さいごはみんなと仲良くなった。

その後市場をのぞきにいくと、

見たことのない、怪しい魚でいっぱい。



市場の雰囲気も怪しく、

肝試しにはぴったりだ。



ちなみに、そこでとれたての魚を、

無造作に焼いて食べさせてくれる。



レストランのバーベキューよりうまい、

とセンセイがいってた。



なんせどんなリゾートホテルの食事でも、

全部魚はここの市場で、買い付けしてるの

だもんな~。



それはおいしいわけです。



この魚市場、行きたい人は、

ジンバランのレストラン街までいき、

右の方にひたすら奥へ。



やがてあります。



センセイは、漁港をみながら、



「子どものころの、自分の田舎みたいだ」



とうるうるしてました。

なつかしかったんだって。



のびのびボランティア紀行


ジンバランの市場の支援は、

これでおしまい。



ちなみに辻様もついてきて

おられたのですが、あまりにも

見た目が美しいため、

他のこきたない風景と似合わないので、

写真をアップしませんでした。



(つづく)