必要とされること | 寺メダカのめだか三昧

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僧侶をしております。2023年に色々な病気が発病してから日々苦しみを騙し騙し生活しております。後悔のないように生きることだけを現在の目標にしています。

生きがいとは何でしょう

 

辞書では、生きがいとは、人生の意味や価値など、人の生を鼓舞し、その人の生を根拠づけるものを広く指す とあります。

 

私が鬱になってからは特に感じるようになったのは心の虚無感です

 

それは自分が不要という感情が強くなったからです

 

必要とされていないなら、生きている価値が見いだせないとどうしてもなります

 

そこで必要とされる人になるために多くの人は努力するのだと思います

 

が、それでもダメだった時、大きな喪失感が自死へ導くことも少なからずあるかと思います

 

そんな時、ふと思ったのが、私にしか出来ない事はなにか

 

ということ

 

それが悩み相談だったのです

 

自分も悩みがあるので悩み相談をする側に入るつもりでいたのですが、悩みが全て公開されているので、誰にでも見れます

 

ただ立場までは見れませんが

 

それでも人の悩みは本当に人それぞれ

 

私にとって、小さな悩みから

とても誰かの意見で解決するとは思えないような人生がかかったような悩みまで

 

千差万別

 

小さな悩みでも悩んでいる本人は真剣に悩まれているのでしょう

 

そして私の悩みもはたからみたら些細な悩みなのかもしれません

 

でもその悩みの大小は価値観でしかないので、人それぞれのうつり方次第

 

話が脱線しましたが、必要とされること

 

これは私が悩み解決の導きをする助言をしたときに得られる自己満足です

 

これが必要とされた時

 

という感じです

 

ここ2週間元気でいられたというか気がまぎれたのもこの必要とされた充実感です

 

人はやはりこういう感覚を持たないと生きていけないのかもしれません

 

よく社会の歯車なんて言葉も聞こえますが、一人一人に存在意義があり、価値がある証拠なのでしょう

 

たまに存在価値がないことを熱弁する人がいますが、果たしてそうなのでしょうか

 

私は一人として存在価値のない人はいないと思っています

 

その人がいるから何らかの影響を与えていて、他の人に刺激を与えています

 

どんな形であれ悪影響も含めて、です

 

ですから不要な人はいないとなります

 

悪、善は問えませんが、反面教師としての意義があったり、人の心に感動を与えるような人もいるのでしょう

 

ともあれ、存在価値は必ずあると信じています

 

少なくともよく言われることですが、自死を願う人はかなり視野が狭くなっていることが多いそうです

 

確かにそれは実感があるので間違いないと思います

 

自己完結してしまっていて、実際の周りを思っているより考え切れていない事実

 

ここ最近色々考えさせられます

 

良い意味でも悪い意味でも。

 

さて話がよく分からなくなってきたので、ここで終わります。

 

気が向くと1日に20回日記を更新しています。

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