“私は息子、嫁、娘、孫2人の誕生日に毎年、おめでとうの気持ちを込めたカードを送ります。プレゼントは特になく、カードと手紙だけです。夫と婿には、なぜか書いていません。照れくさいのかな。家族それぞれへの思いや、今の私の考えを書きます。彼、彼女らの年のころ、私が何をしていたのかを書きます。失敗談も大いに書きます。
私の両親は戦後の大変な時代、私を育てるために夢中で働いており、その頃どんな思いでいたのか、その姿でしか私は知りません。それが、誕生日に手紙を書くことにした理由です。こんなおかあさんだった、こんなおばあちゃんだったと後々、思い出してもらえたらうれしい。もうすぐ中学1年の孫(男)の誕生日。さて、何を書きましょうか。”(7月15に付け中日新聞)
愛知県大口町の主婦・柳瀬さん(76)の投稿文です。自分の誕生日に、周りの家族から手紙をもらうのならば分かるが、自分が家族に出すのである。いろいろな仕方、考え方があるものだと感心する。意外に家族のことは知らないものである。特に年上の人のことは知らない。自分が生まれた時から存在し、特にその人の過去を聞かない限り知らない。子どもにとって両親のことは特にである。これは悔いの大きな元になる。特に親は自分の過去を語らない。語るに照れくささもあり、うるさく思われる気もして語らない。でも柳瀬さんは自分から語っておられる。これは子どもらのためである。上手なやり方であると思う。でも、ご主人と婿さんに贈られない、と言われる。これは考え物である。ここは乗り越えて貰いたいものである。
“40年余り勤めた職場を定年で去る時、後輩の皆さんが退職記念に自転車を贈ってくれました。以来、大事に愛用してきましたが、経年劣化が目立ってきたので新品に買い替えを検討しました。ところが、いざ処分するとなると、贈ってくれた皆さんの顔や「健康のために長く使ってください」と言ってくれた言葉を思い出し、到底捨てる気になれませんでした。
その頃、5月に亡くなられた南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が「貧乏とは欲があるため多くの物を必要とすること」と、つましい生活を呼びかけていたことを思い出しました。そこで自転車店に修理を相談。結果、1週間後に新品同様となって愛車が戻ってきました。農道をそよ風に吹かれながらルンルン気分で走り続けました。一つの物を大切に使い続けることは、資源の少ない国では意味のあることだと思います。”(7月12日付け中日新聞)
三重県伊勢市の農業・岡田さん(男・82)の投稿文です。定年退職時贈られたと言われる自転車、多分20年くらい立つのであろう。それを修理してまた使う。ありがたくて、捨てるに捨てられないのである。ボクの家でも娘が中学高校時代に使っていた自転車を数年前まで使っていた。自転車は長持ちするものである。考えてみれば構造が簡単だからである。バッテリーやIC機器などが使われていない。壊れても比較的簡単に直せる。目で見れば分かるものばかりである。こういうものこそエコなのではあるまいか。
ところが電子機器を使ったものは、直すのに本当に苦労である。素人は当然、プロでもなかなか分からない。そこで部品をそっくり取り替えることになる。場合によっては買い換えることになる。でもこういったものを長く使うことが良いのか、となるとまた違う。ボクの家でも最近いろいろ故障し、買い換えた。ところが性能が全く違うのである。凄い進化である。長く使うのが能がある、と言えないのである。何がいいのか、本当に難しい。
“何年か前、知人から貰った枇杷を食べた後、種を何げなく窓の外に捨てたらしい。何時の間にか芽が出て、どんどん大きく逞しくなった。大きな葉っぱを茂らせ、我が物顔で辺りを牌睨している感じである。これから夏の日除けにちょうど良いとぱかりに眺めていたところ、折り重なる大きな葉っぱに隠れて、黄色の実の一群が目に入った。初めてのことでびっくり。まさに感動ものである。しかし、その実は3メートルを超える高さにある。到底、私の手に負えるものではない。
そこで考えた。あの実を上手に椀ぎ取りたい。脚立というわけにはいかない。右膝を痛めて通院中の身である。手ごろな長さの物干し竿を見つけ、その先端に鋸の柄を縛り付けて固定し、実がついている小枝ごと切り離すことにした。仕掛けは大成功!思わずほくそ笑んだ。収穫は二十数個。早速、洗って皮を剥き、そっと1個、口に含んでみる。何とも言えない素朴な初夏の味が口いっぱいに広がって心地良い。
23年ほど前、近くの大学病院の2人の医師から、しっかりと死の告知を受けながら、それでもこんなに長く穏やかな日常が過ごせるとは、奇跡としか言えない。感謝の一念である。夕方、家人が帰宅したらびっくりすると思う。”(7月8日付け中日新聞)
名古屋市の服部さん(女・91)の投稿文です。枇杷の生命力は凄い。ボクの畑にも枇杷の木がある。凄い成長力である。どんどん上に伸び横に広がる。隣の家に影響してしまう。上に成った実は採れない。更にこぼれた種から芽を出す。うっかりすると何本も伸びてしまう。
服部さんは枇杷の種を窓から捨てられた。そして芽が出て生長し、今では3mにもなったと言われる。ボクの経験からして当然あり得ることである。ここからが素晴らしい。91才の女性が、物干し竿の先端に鋸の柄を縛り付け、枝を切り落として実を収穫された。ボクの妻には到底考えられない。そしてもう一つ驚いたのは、23年前に死の告知を受けられながら、今のこの姿である。この行動力の人だからこうした延命もあったのだろう。まずは気力、行動力であろうか。それがこの奇跡とも思えることを呼ぶ。ボクはもう1ヶ月も経てば満80才の誕生日を迎える。本番はこれからである。
“ある新聞記事が目に留まりました。東海道五十三次の492キロを歩き通した方を紹介していました。私も1年半かけて挑戦することにしました。昨年1月13日に京都・三条大橋を出発しました。全行程を35区間に区切ってバスなどで通いながら、歩く距離を伸ばし、ことし6月8日に東京・日本橋に到着しました。
途中、共に歩く面識もない人が友となり、同じ目的を持つ同志となりました。思い出に残ったのは豪雨の中、三重県の鈴鹿の峠を歩いたことや、急勾配で一番の難所であった神奈川県の箱根の峠を四十数人で列をなして歩き切ったことでした。この良き仲間と一緒にゴールのテープを切ろうと頑張りました。
チャレンジした当初、今までの人生を振り返りながら歩きたいという思いもありました。踏破を果たし「わが人生に侮いなし」です。”(7月7日付け中日新聞)
愛知県半田市の名倉さん(男・67)の投稿文です。東海道53次を歩き通す、これも時折聞く話である。ボクの知り合いにも数人いる。中山道を歩く人もある。昔ならそれが生活だったり旅行だったりしたかもしれない。今は奇特な人の行動であろう。35区間に区切ってと計画された。思い通りに進まれただろうか。40数人と列をなしてともある。40人は団体で歩かれていたのだろうか。ボクも長年のウォーク愛好者である。こうした人をいろいろ知っているが、ボクにもその機会はあったが、その気はなかった。それだけの時間をとる気にはなれなかった。それだけにできることは素晴らしいと思う。また幸運であると思う。「わが人生に侮いなし」と言われる。これだけのことを達成すればそういう気持ちにもなろう。でもボクには、名倉さんはこれからだと思う。これからの過ごし方は大切である。
“新聞は今の私に生きがいをくれる大切な存在の一つです。高齢になった今、大量の情報を一気に読み込むことはできません。毎朝新聞を開き、興味深い記事はその場で読みますが、後は好きな時間に手軽に読めるよう切り抜いています。毎朝のこうした一連の作業が今日のリズムをつくってくれます。
切り抜いた紙面は、冊子にしていきます。手近にある使い終わったカレンダーのきれいな紙や大きな封筒の裏側などで表紙を作ります。これに切り抜きをとじていきます。こうすると、大小さまざま、優しい手触りのかわいい冊子に仕上がります。この「マイ冊子」は、数年にわたって新聞から頂いた私の財産です。”(7月7日付け中日新聞)
愛知県岩倉市の大野さん(女・88)の投稿文です。新聞切り抜きの話の投稿は多いし、長年の作業の成果は財産、宝ものとなる、という話も多い。大野さんは88歳の女性である。88歳はボクにまだ大分先である。88歳がどういうものか、ボクにはまだよく分からないが、この根気は凄いと思う。表紙なども、いろいろなものを利用しての工夫である。買ったものならキチンと整うが、これでは様々になる。大野さんはその様々も楽しんでみえる。そしてこの一連の作業がリズムになっている。
ボクもこの「話・話」 のために、新聞の切り抜きをしている。切り抜いて、スキャナーで読み取り、コメントを書く。これも一連の作業である。切り抜いた新聞は、ある期間保存するが、多くなると古いものから捨てている。最初は捨てることに抵抗もあったが、「話・話」 として残しているのでよかろう、と今では納得している。今新聞を取る家庭は随分と減っているようだ。何でも扱いよう、利用の仕方である。ボクには新聞のない生活は考えられない。
“学んだ小学校がなくなることとなり、地元に残る同級生有志で集まったが、やはり良いものである。高校、大学や勤め先とは違い、彼らとの付き合いは純粋に横並び、余計な競争意識もない。それが、還暦を過ぎて会うのもまた良い。それぞれの人生を歩み、地位や境遇に差が表れていた年代を経てきたが、それをも吹き飛ばし「行き着くところは皆一緒か」という感じがするのである。
話題は親の介護のことが多い。子どもの頃に「○○を買ってもらった」「△△へ家族で行った」と言い合ったのが「うちの親は施設に入った」「先日、見送った」のようになった格好だ。そもそも親は子どもの頃には生きる基礎を教えてくれ、今は自身の老いや死を通じていろいろなことを諭してくれる。それを近いうち私たちもたどる。その時また気楽に語り合えるのが、この仲間たちではないか。”(7月1日付け中日新聞)
三重県松阪市の公務員・家城さん(男・64)の投稿文です。学んだ小学校がなくなる、どんな気持ちでしょうか。ボクには体験がありませんが、最近よく聞く話ですし、これから多くなるでしょう。人口減少というのは本当に大きな影響を与える、想像してないようなことが起こるかもしれません。
家城さんはそんな小学校時代を懐かしく思い出されている。小学校時代は余計な競争意識はなかった、と言われる。その後のことを思うと、よりそう思われるのだろう。戦争後の苦しい時代から豊かになるほど競争意識は高まる。そして社会に出るほどそれは高まる。人より豊かに、人より身分高く、これが人間なのだろう。そして時を経て「行き着くところは皆一緒か」という感じを持たれた。一生振り返ってみれば良い時、悪い時は誰にもあり、均してみればそれ程には変わらない、これはボクも同じ感想を持っている。そう思うと、競争にあくせくするのは何とも愚かに見える。これは過ぎてみなければ分からない。
“仕事の途中の午後1時すぎ、コンビニで昼食を買っておなかに入れようとレジの列にいた時のことだ。前には私と同じく遅い昼食にやっとありつけるといった建築関係の職人さんらしき方々6人ほどがそれぞれ弁当やパンなどを手に並んでいた。レジの40代ぐらいの女性は会計のたび「ありがとうございました。昼からもお仕事頑張って!」と一人一人に大きく張りのある声をかけた。職人さんらは照れながら「おう」とか「ありがとうな」と返事した。
続く私には、購入するあんパンと缶コーヒーを見て「張り込みの刑事さんみたいですね」と、ちょっとおもしろく会話してくれた。このひと言で一瞬にして明るく前向きな気持ちになれた。人との交流って魔法みたいなところがあるなと実感じた。”(6月28日付け中日新聞)
三重県伊勢市の会社員・大田 さん(男・54)の投稿文です。この店員さんのようにユーモアや機知のある人を全く羨ましく思う。事務的に処理をする店員さんが多いだけに、言われたお客さんは意外に思うだろう。そして嬉しく思う。こうしたユーモアや機知はどこから生まれるのだろう。能力か、心がけか、環境か、いろいろなことが考えられるが、一朝一夕とは行かないだろう。ボクは全く欠けている。今さら無い物ねだりはできない。全く残念である。
“これといった趣味もなく、平凡というよりただぼんやりと日々を暮らしていた18年前、色鉛筆やカラーマーカーなどでチラシの裏をハガキ大に切って自己流で描き始めた絵手紙が私の人生を変えた。「朝顔と色鉛筆ケース」を描き、初めて中日新聞(現在)隔週土曜夕刊「ほのぼの絵手紙」のコーナーに投稿したところ、なんと初投稿で初入選した。
その後20回以上も掲載され数年前に最優秀賞にも選ぱれた。入賞した人同士で絵手紙交流を始めるきっかけになった。8年ほど前から、地元の高齢者施設から教室の講師を依頼され施設の利用者に絵手紙の魅力を伝えている。スランプの時もあったが、今後も楽しんで描き続けたい。”(6月27日付け中日新聞)
名古屋市の堀江さん(男・82)の投稿文です。初めて書いた絵手紙を新聞に投稿、入選されたと言われる。それをきっかけに20回以上も新聞に掲載され、最優秀賞も受けられたと言われる。高齢者施設で講師もされている。始めて18年と言われるので、60才半ばである。凄い発展である。何が発展するかは分からない。でもやらなければ発展はない。まずは挑戦であろう。
ボクもあることがあって絵手紙に興味があった。令和3年に入って「己書」という作品展を見る機会があった。そして、その年の7月に公民館学習講座に「己書」の講義が出ていた。早速に申し込み、10月9日に2時間ばかりの体験をした。そしてその後描き続けている。今年の7月で126枚になった。絵手紙とも言えない、己書とも言えない。そこでボクは「気まま書」と呼ぶことにした。今のところ知人に見せ、ホームページにそっと載せている。
“小中学校、高校のクラス会の永年幹事を務めている。会員名簿のメンテナンスが大切な仕事の一つだ。日ごろ、情報網を駆使して住所などが変わった場合の更新を心がけている。クラス会の時期が近づくと仲間と相談して場所の選定や予約をし、往復はがきで案内する。
続々と戻ってくるはがきの集計の傍ら、会場の店との打ち合わせも。直前に都合が悪くなる人の分も見越した参加人数の申し込み、前回の繰越金の扱いなど考えることも多い。
当日も集金や司会進行などで忙しいが、出席者から「楽しかった。また開いてね」「幹事お疲れさま」と言われると、疲れも吹っ飛ぶ。最近はLINE(ライン)を使う人も増え、会員間の連絡も楽になった。私は幹事役を楽しんでいる。”(6月12日付け中日新聞)
名古屋市の磯部さん(男・80)の投稿文です。ボクも磯部さんとほとんど同じ事を長年しています。特に平成18年からは小学は隔年、中学は毎年同窓会を開催してきました。それ以前は時折でしたが開催し、コロナ禍が激しかった時は休みました。小学の今年はもう4月に開催し、第14回目になっています。中学は先日案内を出したところで9月に開催します。今年で27回目となるはずです。高校はボクは携わっていませんが、今年6月に10年ぶりに開催してくれました。大学も近年は隔年で開催されていましたが、今年からボクが担当することになりました。何事も携わっていればいろいろな思い出ができます。磯部さんはいろいろ段取りを述べられていますが、これはどこも同じです。それはそれで、苦労でもありますが楽しみでもあります。苦労だけでしたらボクもやってきません。人の一生は思い出作りと行っても大きな間違いではないでしょう。そういう意味でボクは恵まれています。
“愛知県一宮市と岐阜県羽島市を結ぶ木曽川の新濃尾大橋が5月に開通した。開通式の新聞記事を見て、遠い昔を思い出し胸がいっぱいになった。私は岐阜県安ハ町に育った。母の実家は愛知県の旧尾西市(現一宮市)起。今から約80年前の昭和20年代、母の自転車の後ろに乗り、長良川はさおで操る渡し舟で羽島側まで渡り、長い道のりを自転車で行った後、木曽川を「ポンポン船」と呼ぱれたエンジン付きの渡し船で渡って起へ行った。夏休みには多忙な母に代わって私が3歳下の弟の手を引いて歩き、渡し船に乗り、2人だけでほぼ1日がかりで起へたどり着いた。
母の実家は料理店で、食糧難の時代にごちそうをいただいたり、祖母に映画館に連れて行ってもらったりして夢のような時間を過ごした。今は長良川も木曽川も自動車であっという間に渡れて感慨深いものがある。”(6月10日付け中日新聞)
愛知県春日井市の主婦・河原さん(83)の投稿文です。木曽川に新濃尾大橋という新たな橋が開通しました。渡船から橋に変わりました。河原さんは子供時代の渡船の思い出を投稿されました。大変な苦労のようですが、それでも渡船があったことは大きな便益でした。こうした話もまもなく昔語りになるでしょう。
橋を造るのは渡船をなくすことも大きな目的です。木曽川にはいくつもの渡船がありましたが、これですべてなくなりました。一宮友歩会の1昨年の12月例会で、この渡船に乗りました。無くなる前に思い出を作っておこうと計画しました。40名近い人が何往復もしながら乗せてもらいました。この開通の記事に思いを新たにされたことでしょう。今この渡船を残す運動が進められています。どうなるのでしょう、興味を持ってみています。