“愛知県一宮市と岐阜県羽島市を結ぶ木曽川の新濃尾大橋が5月に開通した。開通式の新聞記事を見て、遠い昔を思い出し胸がいっぱいになった。私は岐阜県安ハ町に育った。母の実家は愛知県の旧尾西市(現一宮市)起。今から約80年前の昭和20年代、母の自転車の後ろに乗り、長良川はさおで操る渡し舟で羽島側まで渡り、長い道のりを自転車で行った後、木曽川を「ポンポン船」と呼ぱれたエンジン付きの渡し船で渡って起へ行った。夏休みには多忙な母に代わって私が3歳下の弟の手を引いて歩き、渡し船に乗り、2人だけでほぼ1日がかりで起へたどり着いた。
母の実家は料理店で、食糧難の時代にごちそうをいただいたり、祖母に映画館に連れて行ってもらったりして夢のような時間を過ごした。今は長良川も木曽川も自動車であっという間に渡れて感慨深いものがある。”(6月10日付け中日新聞)
愛知県春日井市の主婦・河原さん(83)の投稿文です。木曽川に新濃尾大橋という新たな橋が開通しました。渡船から橋に変わりました。河原さんは子供時代の渡船の思い出を投稿されました。大変な苦労のようですが、それでも渡船があったことは大きな便益でした。こうした話もまもなく昔語りになるでしょう。
橋を造るのは渡船をなくすことも大きな目的です。木曽川にはいくつもの渡船がありましたが、これですべてなくなりました。一宮友歩会の1昨年の12月例会で、この渡船に乗りました。無くなる前に思い出を作っておこうと計画しました。40名近い人が何往復もしながら乗せてもらいました。この開通の記事に思いを新たにされたことでしょう。今この渡船を残す運動が進められています。どうなるのでしょう、興味を持ってみています。
“自宅から自動車で1時間ほどかかる岐阜県中津川市の山間部に10代にわたり先祖が眠る墓があったが、昨年8月に墓じまいした。3年前に夫が亡くなり、私ひとりでは、墓の管理が難しいので決断した。墓には、33基の墓石があった。先祖から墓を引き継いだ夫と結婚してから50年間は毎年、車に草刈り機を積み込んで年に5回、墓地を訪れ、墓を手入れしてきた。しかし、私だけでは草刈り機が使えないのに加え、子どもたちにも負担をかけられないので墓を閉じた。墓じまいでは、さまざまな手続きを手伝ってくれた司法書士さん、お寺のご住職さんが協力してくれたので無事できた。深謝に堪えない。”(6月7日付け中日新聞)
岐阜県恵那市の主婦・早川さん(79)の投稿文です。最近墓じまいの話も多い。そして考えさせられることも多い。そして今回は特にそうである。10代続いたお墓である。もう何百年と維持守られてきたのである。この間には維持にいろいろな困難もあったであろう。戦争も続いた。それも乗り越え維持された来た。それが墓じまいである。今はそんなに特別な時代なのであろうか。それ程に維持が困難な時代であろうか。
要は気持ち、心構えの問題ではなかろうか。早川さんも50年間年5回墓地を訪れ手入れをしてこられた。そして子供達に負担をかけられない、ということで墓じまいをされた。ボクにはいつもここが引っかかる。子供に負担をかけられない、と言う言葉がよく出てくる。自分達がしてきたことを子供にさせてはいけないだろうか。何か親が先回りをしている気がする。今の時代、合理化の元に簡略化することが多い。合理化と簡略化は違うと思うのである。ボクは今のところこうしたことをする気はない。子供がその時考えれば良いと思っている。それまではボクらが姿を見せていく。
“私は3人の兄との4人きょうだいだ。81歳の3番目の兄が先日、電話してきた。終活の一環で家の片付けをしたら、5年前に105歳で逝った母の字で「米寿のお祝い」と書かれた10万円入りの祝儀袋が出てきた。米寿はまだなのに何だろう-と。
兄がすっかり忘れている様子なので、私は説明した。それは母が米寿の時に家族で祝った際、「お祝いしてもらうと早く死ぬから、自分の方から祝う」と、私たち4人にくれたものだったでしょう、と。毛筆で一人一人に書いた手紙もあった。
父が46歳で病に倒れ、半身不随になり、母は働きながら13年間、父を介護し家族を支えた。苦労を表に出さず、生涯弱音を吐かなかった母はすごい人たった。今回の兄の電話でそれを思い出すことができた。”(6月5日付け中日新聞)
岐阜県恵那市の主婦・安藤さん(75)の投稿文です。サッと読んだ時、何のことかよく理解できなかった。米寿の祝いに、祝って貰う人が「米寿のお祝い」と書いて子供らに渡していたのだ。「お祝いしてもらうと早く死ぬ」と言うこともよく分からぬが、これもひとつの見方であろうか。長生きできたことの感謝を表す方法でもあろうか。そして、こうすることによって105歳まで生きられた。言葉通りであった。誕生日祝いは周りに感謝する日である、とも言われる。感謝を表す方法もいろいろある。若い時はまだしも、高齢になれば、ここまで生かして頂いたことに感謝しかない。ボクももう1ヶ月もすれば満80才である。この元気さで、この歳まで生かされていることのありがたさ、お墓で、寺社で、行く度にこの言葉を伝えている。
“80歳を迎えるのを機に昨年9月、写経を始めた。書道半紙1枚に約270字、鉛筆で書き、1日3時間以内、目標は千枚とした。一枚一枚書くごとに達成感と喜びがあり、一日が充実した。しかし、少しずつ飽きて、書けない日も出てきた。
そんな時に小学生の孫娘から「おじいちゃん写経頑張ってる?」と電話が来た。体調と相談し自分のぺ-スで書くよう励まされ、疲れた時にはこの言果を思い出して頑張った。5月上旬、目標の千枚を達成した。書いている時に無心になれること、孫がくれたような優しい言葉が大きな活力になること、老いても目標を持つことの大切さなど、写経を通じて多くのことを学んだ。”(6月3日付け中日新聞)
岐阜県各務原市の久保田さん(男・80)の投稿文です。写経とはお経を書き写すことですが、久保田さんは多分般若心経でしょう。1日3時間以内、1000枚を目標にされた。そして約8ヶ月で達成された。孫の応援が大きかったと言われる。素晴らしい。そして、目標を持つことが大切と言われる。写経を通じて多くのことを学んだ、とも言われる。老いて健在である。
この目標はとてもボクにはできない。ボクも写経ではないが、新聞記事の書き写しをしている。「中日春秋」というノートを活用している。もう何年にもなるが、未だ17冊目である。昨年はこの書き写しについて、中日新聞に投稿し、掲載もされた。250字ばかりの書き写しである。頑張っているが、月に20日が難しい。特にここ数ヶ月が落ちている。もう少し頑張りたい。いつか久保田さんを目標にしたい。
“物置に段ボール箱数個ほどにもなる写真が置いてある。趣味のハイキングや山登り、子ども3姉妹の成長記録、家族写真を撮りためてきた。自身の年齢を考え、これらのほとんどを処分する決心をした。
以前ある人から教わった方法で、ひと月の間に撮った写真からお気に入りを2枚程度選び、残りは処分する。30年前に始めたハイキングや山登りの写真を見るたびに、元気だった当時を思い起こし、今の自分がその場所に立っているように感じる。選別に苦労しつつ泣く泣く捨てた。生まれた時からの子どもたちの写真は、どれも捨てる気になれない。一緒に作業をした妻は目に涙をためている。時間を忘れて昔のことを語り合った。「断捨離」には、つらい側面もあることを思い知らされた。”(6月3日付け中日新聞)
三重県桑名市の松本さん(男・74)の投稿文です。考えて見ると、写真が多いのは我々世代の特徴ではなかろうか。その前の世代に人にとって写真を撮る機会はあまりなかった。カメラも高価だったし、プリントも写真屋さんに出して高額になった。あまりバシャバシャと撮るものではなかった。げんに親の写真は数枚しかないし、ボクも高校以前の写真は数えるほどである。多くなったのはそれ以降である。そしてボクも何十冊ものアルバムがある。そして今の世代は撮ってもデータで保存である。スマホにLINEである。ボクもデジカメになってからはほとんどプリントをしていない。それで妻に不満を言われている。
終活である。アルバムの整理は重要なことである。松本さんが言われるように、本人にしても涙が出る作業である。残された家族は更に戸惑うであろう。そう思うから終活などほとんど眼中にないボクももう済ましてある。保存用として、写真を抜き出し数冊にまとめてある。後は捨てていいと、伝えてある。いろいろな方法があろう。
“サラリーマンを長く続け、定年後も12年間働いた。体を壊したこともあったが、夢中で業務をこなした。仕事量が多くて苦しんだが、何とか頑張り通した。われながらよく体を動かし続けたと思う。
80歳を超えて強く思うことは、人生には必死に駆け上がる上り坂もあれば、ゆっくりと進めばいい下り坂もあるということだ。自分は今下り坂であるが、楽しめればいいのかなと思う。朝起きると1時間余かけて4キロぐらい歩き、軽く体操をして、その後に新聞に目を通し、続いて読書をする。それが済むと、たまに出かける。健康に恵まれており、この世に送り出してくれた今は亡き両親に感謝する今日このごろだ。”(5月31日付け中日新聞)
名古屋市の渡辺さん(男・83)の投稿文です。人生上り坂もあれば下り坂もある。渡辺さんは80歳を超え 下り坂と言われる。その下り坂をゆっくり、楽しんでいければ良いと言われる。至極普通の考え方と思う。異論はない。ただ前話は、歳は関係ない、という話であった。この考え方に立つと別の考え方も浮かぶ。できることは今がすべてである。今をどう生きるか、これが問題である。ボクの机の上には「明日死ぬと思って生きなさい、永遠に生きると思って学びなさい」という言葉が貼ってある。今を精一杯生きなさい、と言うことである。起きてしまった過去のことは、反省はできてももうどうにもならない。未来のことも、いろいろ想定はできても今はどうにもできない。できるのは今のことである。
“人間ドックの結果が届いたので、かかりつけ医として月1回通院する漢方医の先生に見せた。血液検査で基準値を超える項目があったので、私が「年だからしょ うがないですよね」と言うと、先生が「年のせいにするのは私は好きじゃないです!」と言ったので、びっくりした。先生が「そうですね」と言うと思っていたのだ。「改善しようとする気持ちが薄れてしまうから」という先生の答えに「なるほど」と感謝した。
以前、友人から教わった「年を取ったら『3かく』を」の心がけを思い出した。運動をして「汗をかく」。「恥をかく」こともいとわず、筋トレなど新しいことにも挑戦する。そして、日々の摂生の結果を記録に残すため「字をかく」。「3かく」で数値の改善に向け努力したい。”(5月30日付け中日新聞)
名古屋市の佐々さん(男・74)の投稿文です。また珍しいお医者さんがあるものですね。基準から外れた数値が出ると「歳のせいでしょう」と歳のせいにする医師が多いとよく聞きます。佐々さんもそれを思い浮かべられていたのでしょう。それでお互い何となく納得です。ところが返事は違っていた。歳のせいにするのはあきらめると同じです。良いわけはないでしょう。このお医者は前向きですね。何事も前向きな姿勢は大切です。そして、佐々さんは「3かく」を思い出された。汗をかく、恥をかく、字をかく。やれることはやりましょう。ボクもこの3つは心がけています。
“私の住む地域は高齢者が多く、亡くなる方や介護施設に入所する人もいて空き家が増えている。いつも明かりがついていた家が真っ暗になるのは寂しいものだ。最近、道路沿いの空き家の一つに照明がともった。家の板塀は、つり下げ用の花かご「ハンギングバスケット」に植えた花で飾られ、その空間がパーッと明るくなった。家の前を通ると話し声や夕げの支度なのか食器の音が聞こえてきた。とてもうれしくなった。
私も名古屋市職員を定年になった後、岐阜県土岐市から三重県南伊勢町の海辺に移り住んで23年になる。移住者の先輩として、空き家に新しく住んでくれる人がもっともっと増えるといいのになあと思っている。”(5月29日付け中日新聞)
三重県南伊勢町の山之内さん(女・83)の投稿文です。高齢化、そして人口減少の今の社会、空き家も増えています。これはボクの村も同じです。毎年何軒かと、どんどん増えていきます。もう10年もたったらどうなるのでしょう。田舎の昔の屋敷は何十坪どころや何百坪の家もあります。それが空き家になり、雑草が繁った家もあり寂しものです。それが村の中心部にもあります。その土地が売却されれば、数軒の家が建つでしょう。そういう場所もあります。それを見るとホッとします。山之内さんと同じ感想です。ボクの村では村周辺には新しい家がまだ建っていきます。できれば村中の空き家に建って欲しいものです。ところが聞いてみると村中は嫌われるようです。付き合いが嫌なようです。これはどうなんでしょう。
“五月晴れの5月3日、恒例の妻の誕生会を家族全員で楽しみました。私は80歳を目前にして、誕生会を記念になる会にしたいと思っていた時、以前に中日新聞に「思い出新聞」のことが載っていたのを思い出しました。早速、新聞社に問い合わせました。孫は高校3年生を頭に小学6年生まで、新聞が読めるようになり、家族10人のプレゼントに決めました。
一番苦労したのは、家族の誕生日を内緒で調べることでした。思ったより大変でしたが、それぞれの生まれた日を何度も確認して「思い出新聞」を依頼しました。1週間くらいで手元に届き、再度確認して、あとは当日を待つばかりです。
宴たけなわのころ、「思い出新聞」を一人一人に手渡しました。みんなサプライズのプレゼントにビックリしていました。「生まれたその日に何かあったのかを知ることができた」と感動して、会が大変盛り上がりました。「じいじ、素敵なプレゼントをありがとう。一生の宝物です」と言ってくれて、いつになく楽しい思い出がいっぱいの誕生会でした。会は、妻亡き後も続けている恒例行事です。他界して3年になる妻もよろこんでいると思います。ありがとうございました。”(5月26日付け中日新聞)
愛知県清須市の星野さん(男・79)の投稿文です。前回に続いて新聞の話題です。それも古い新聞の話です。中日新聞社に、特定の日の新聞を送ってもらう「思い出新聞」、いろいろなサービスがあるものである。星野さんは家族10人の誕生日の新聞を依頼された。思いがけない贈り物に家族は大喜びです。
ボクはこの思い出新聞は知っていました。と言うのはボクの結婚式に、ボクと妻の誕生日の新聞が贈られたのです。もう55年も前のことです。今も保存してあります。そして中日新聞社は今もこのサービスは続けておられるのだ。皆さんも機会を見つけて活用されるといい。
“ネット通販で買った趣味のジグソーパズル用の額縁が届き、箱に商品を保護するための気泡緩衝シートのほかに丸めた新聞紙が入っていました。今まで購入した通販商品のほとんどで緩衝材に新聞紙を利用した例はありませんでした。物流に携わっていた若い頃が懐かしくなり、1枚ずつ引きのばして読みました。
物流会社の東京支店に事務職で勤務していた頃、他の荷物に交じって時折、同僚たちに宛てた故郷からの荷物も送られてきました。彼らは満面の笑みとともにその場で荷物を開け、故郷の品をお裾分けしてくれました。当時、緩衝材の多くは新聞紙でした。地元紙をのばして読み、お国自慢を聞いたこともあります。新聞紙のリサイクルとして今後も緩衝材に使われることを望みます。”(5月24日付け中日新聞)
三重県松阪市の会社員・山本さん (男・69)の投稿文です。緩衝材、確かに昔は新聞紙だったし、今はほとんどが気泡である。緩衝材としての新聞は有効利用である。そして、こんな付録も及ぼしていたのだ。故郷の贈り物には故郷の新聞紙が使われている。その新聞紙を読む。楽しかったろう、懐かしかったであろう。よく理解できる。合理さに負け、昔の良かったものも捨てられていく。 仕方がないであろうか。
ボクもタンスの引き出しの敷物などで昔の新聞を見つけることがある。つい読んでしまう。これも同じであろう。こういう楽しみがどこかに残っていると嬉しい。わが家の母屋は昭和23年築である。どこかにハッとするものが残っていないだろうか。