「ただいま~。」
ガチャッと玄関を開ける。
漂ってくるいい香り。
いつもなら、ちょこっと顔を出す智君が出てこない。
キッチン……かな?
何作ってんだろ?
靴を脱いで、廊下に足をついた途端、体中が重くなる。
あ~、俺、だいぶ疲れてる?
そりゃそうだ。
ここ数日のハードスケジュールは結構きつかった。
靴下を脱いで、洗濯機に放り込む。
上着を脱ぎながら、リビングのドアを開ける。
いい香りがリビングいっぱいに満ちていて、思わず深呼吸。
「あ、おかえり。」
智君がキッチンでふにゃりと笑う。
ドッと体の力が抜ける。
上着をソファーの背に投げ、腰からソファーになだれ込む。
「翔君!?」
智君が、お玉を持ったままやってくる。
「つかれた~。」
ソファーに座ったまま横になる俺を見て、安心したようにまたふにゃっと笑う。
「お疲れ。」
「何作ってんの?」
ソファーに沈んだままネクタイに指を入れ、揺すりながら緩める。
「ダシとってる。」
「ダシ?」
「そ、出汁!」
智君が笑ってキッチンに戻って行く。
出汁……とって、何作るつもり?
起き上がって、ソファーの背から智君のいるキッチンを見る。
当然、智君の姿は見えない。
でも、良い香りが湯気に乗ってやってくる。
ネクタイを外しながら、そっとキッチンを覗き見る。
智君はお玉に掬った出汁を豆皿に乗せている。
「智君?」
「ちょっと待ってて。」
豆皿の上の出汁が、智君の息で波打つ。
そこにそっと口をつける智君。
汁がゆっくり智君の唇に流し込まれて行く。
「うん、旨い。」
豆皿にまた汁を乗せ、俺に差し出す。
受け取って、顔を近づける。
ほんわかした湯気が、鼻孔をくすぐって……香りだけで十分美味しい。
クイッと、酒を飲むみたいに飲み込むと、口の中いっぱいに広がる香りとうま味。
「マジ、うめっ。」
「だろ?」
智君は火を止め、まな板の上で葱を刻み始める。
「今、旨い味噌汁作ってやっから、ちょっと待ってて。」
「……味噌汁?」
智君の隣で、智君が刻む葱を見つめる。
見つめてるのは、本当は葱じゃないけど。
包丁を使う智君の指とその動き。
料理してるせいかな?
しっとりした手が、葱を刻む包丁を、器用にサポートしてる。
葱をちょっとずつずらしていく手。
手の甲の滑らかさ、骨の動き、血管。
物を作る手って、こういう手なんだろうな。
朴訥とした美しさ。
上手にできたのか、智君が軽く鼻唄を歌ってる。
ん~、よりいっそうお出汁の香りが濃厚になった気がする。
この人は、どうしてこうも全てを美しく見せるんだろう。
舞台に立てば、歩くだけで、
カメラの前に立てば裾を払うだけで、
キッチンに立てば、こうして包丁を握るだけで。
この世の全てが美しいんじゃないかと錯覚を起こさせる。
それくらい智君の周りは美しく澄んでいる。
鍋に豆腐となめこを入れ、味噌を解く。
菜箸を操る手もまた美しい。
最後に葱を散らす指。
「旨そ。」
俺と顔を見合わせ、智君がクスクスっと笑う。
「旨いよ。」
お椀にそっと味噌汁をよそい、それを持って、ダイニングへ。
味噌汁を前に向かい合う。
「いただきます。」
「んふふ。」
両手でお椀を持つ俺を、智君が見つめる。
そっと、口を付ける。
出汁の濃厚な香りと、葱の香り。
一口すすると……口の中が旨いでいっぱいになる。
体中に染みわたるうま味。
ほっと息をつくと、智君が微笑みながら味噌汁をすする。
「うん、旨い。」
「旨いね。」
味噌汁に浮かぶ具を見ながら、もう一口。
「ていねいに出汁をとったから。」
「丁寧に?」
「煮干しは頭と腹を取って、じっくり煮出して、サバ節は削りたてを使って。」
「だから、香りがいいんだね。」
ふふっとまた笑って、味噌汁をすする。
「今日の翔君にはこういうのがいいと思って。」
「うん、最高。すっごく染みる。」
智君が、味噌汁をすすって、じっと器の中を見つめる。
「明日も作ってやっからな。」
「うん、これなら疲れても大丈夫!」
智君が困った顔で笑う。
「食べたらシャワー浴びてこい。」
「いいよ、疲れちゃったから、明日の朝にする。」
「そっか。」
智君がまた味噌汁をすする。
口からはみ出したなめこをチュルッと吸い込む。
「智君が一緒なら……今入ってもいいよ?」
チロッと上目遣いで見る。
智君は、箸で豆腐をそっと掬って、口に入れるところで。
「しょうがねぇなぁ。」
言いながら、お椀の味噌汁をゴクゴクと流し込む。
俺も慌てて、味噌汁をかっ込む。
「三助してやっから、早く脱げ。」
智君が俺のシャツを引っ張る。
「そんなにすぐは無理!」
笑いながら、バスルームへ向かう。
「え?もしかして智君は入らないの?」
「おいらは三助。」
そう言って、俺のシャツを脱がそうとする。
「え~、一緒がいい!」
「今日はダメ。疲れてんだから。」
智君が俺のシャツを握って視線を外す。
「ごめんな。」
「なんであなたが謝るの?」
俺は自分でシャツを脱ぐ。
露わになった胸に、智君が、トンと頭をくっつける。
「あなたが悪いわけじゃないよ。」
智君の頭を撫で、背中をトントンと叩く。
「俺は好きでやってるんだから、ちょうどいいんだよ。」
「……翔君。」
智君の肩を掴み、視線の高さを合わせる。
「ほら、三助してくれないと、寝る時間なくなっちゃう。」
「……ん。」
俺が笑うと、釣られるように智君も微笑む。
二人一緒にバスルームに入っていく。
そう、誰が悪いわけでもない。
俺はあなたの美しい世界を守りたい。
本当に心からそう思ってる。
例え……あと少しで、あなたがここからいなくなったとしても。