てんざえもんの哀しき告白 -25ページ目
なぜ人間どうし生存のために競い合わなければならないのか!ボクの率直な疑問である。なぜ人間は自ら居心地のいい社会を希求しないのか!
グローバル化はますます個を孤立化させる。思うに今の学生は時代に流されている。連帯感が欠如している。ホント、最近の日本はおかしい。
働ける世代の生活保護受給者が問題となっているが、産業の空洞化が原因ではなかろうか。
今の日本は、倫理観が欠如していると思う。



土曜の深夜なのに、テレビもラジオも全然おもしろくない。なんか楽しくない。ただボーっと携帯のキーを打っている。突然画面が真っ暗になる。不愉快だ。他の人はどうなんだろ。
日曜の日中何していいか分からない。
NHKよ、土曜の深夜ちっともおもしろくないぜ!
モー娘の歌の歌詞に、ニッポンの未来は世界がうらやむ、などとあるが、今虚しく聞こえる。
深夜は、パーッといきたいものだ。



今の日本を考えると、つくづく孟子が、紀元前から言っている恒産無ければ恒心無しという言葉の意味をよく噛み締めなければならない。今の社会は、経済的に、ある意味不安定な社会である。いい加減、恒産が安定する社会を目指す時期なのではないか。どういう経済システムが今後の社会に必要か考える時だと思う。アメリカを見よ、ヨーロッパを見よ、日本も同じでないか?宗教などに頼っている場合ではない。もう一度言う。孟子の言葉をよく考える時なのだ。
ボクは、子供の頃から人と競争するのが苦手というか嫌いだった。だから競争を原理とする資本主義社会は正直生きづらい。どうしても、こころの中にある万人皆平等という思いは消し去ることは出来ない。だからであろうか儒教の思想にはまっている。社会主義とかキリスト教の思想に親近感を持っている。勝ち負けに執着する日蓮系の宗教は生理的に嫌いだ。
最近思うことは、神道のことだ。神話であるが日本人として、その教養として古事記とか、神代の時代の古典に親しむことは、特定の宗教を持たない日本人にとって、自らのアイデンティティを共有する一種の場である。それは、日本の伝統と文化を守る思想にもなる。ボクにとって天皇という存在は、神ではなく、日本の伝統という立場である。だから現憲法での、象徴天皇制には賛成している。
ボクにとって神社とは、最後の神頼みの場であり、自然な心情として敬する場である。思うに、神道は、宗教ではない。宗教に堕落させてはならないものである。




日蓮が特に非難した念仏の宗教の現代的意義について思うことは、臨死体験との関係に置いてである。
念仏の思想的バックボーンになる仏典は、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の所謂浄土三部経であるが、死後神々しい存在に会うストーリーになっており、立花隆氏の臨死体験のリポートの内容に合致する。
仏教哲学者カール・ベッカー氏の指摘通り、浄土経典は、臨死体験を基に書かれたものだと考えられる。
法然上人が、念仏を民衆レベルに持ってきた功績は偉大だ。題目と違い、死後に救済を説いた念仏は選択本願念仏集の文脈で語られねばならない。
はっきり言えることは、日蓮の言うように、念仏を唱えて地獄に堕ちることはないと言うこと。浄土教は、臨死体験の文脈で語られることが重要だ。