てんざえもんの哀しき告白 -23ページ目
信仰にかまけていると人としての思考停止状態に陥り人生を台無しにしてしまうことになりかねない。ましてや無邪気な子供時代から親が子供を宗教で育てたらある意味人としての個性をころしてしまう。新興宗教の類いは、人の弱みに付け込む悪質な商売である。信者は、ご利益目当てに必死に信心に励み自分が信仰している宗教団体のグッズを買い求める。そして、教団側は、客である信者を離さない為に、自分の教団以外の宗教を間違った宗教だと思い込ませて、徹底的に信者から金を巻き上げる。これが新興宗教のほんとの姿である。そして、新興宗教の教団は、宗教法人という隠れみの利用して税金から逃げている。
新興宗教教団は巨悪体質なのである。
特に、日蓮系の教団は、勝ち負けにこだわるため弱肉強食的な資本主義体制の国家にぴったりなのである。

こころある人達よ宗教の誘惑に負けないでほしい。




特定の神を指していうわけじゃないけれど。
人間がペットを可愛がるように、神から見て、男女問わずかわいい人間には幸せを実感させる贈り物があるのだと思う。そして、神は幸せを与えない人間には、希望という名の麻薬を与えた。
思うに、天命というものはあると思う。それがあるから努力に関係なく幸不幸があると思う。だから、神は無慈悲にもある人間には他人から見ても不幸という贈り物をするのである。
天命ならば、人間に為すすべはない。だから、ボクが儒教を持ち出し、人が人を救うという思想を啓蒙しても意味が無いのだ。それが、神が与えたボクの天命なのかもしれない。
ボクの人生は、順境より逆境の方が断然長い。ボクは昨日、希望から絶望へ転落させられた日でもあったのだ。涙もいっぱい流した。



最近、思うことは、長年探求して来た鎌倉仏教などどうでもよくなってきたということだ。
元々、二宮尊徳先生の思想を探求する上で儒教を知る必要性から論語を始めとして儒教の経典に親しんでいるうちに、自惚れかもしれないが、儒学者の一人になったような気がしてきたことは事実である。儒学の核心は、各人の良心を国家に及ぼして国民福祉の向上にある。つまり居心地の良い社会の実現にある。儒学は、宗教とは違い、活用と応用を貴ぶ。そして何よりも人生を謳歌する思想なのである。
特に、わが国において、ボクは貝原益軒先生の著作を以て儒学の道を指標された。そして,江戸時代は、鎖国の時代であったにもかかわらず、多くの学者を輩出した時代でもあった。それは、江戸時代が比較的平和な時代だったからでもある。ボクが探求して来た鎌倉仏教という宗教思想は、当時の、ある意味絶望的な社会、世相の反映というべきものである。
ボクは、もう法然、親鸞、道元、仏教ではない日蓮、等から卒業する時が来たのかもしれない。それは、ボク自身のネクラな姿勢から人生謳歌への転換なのであろうか?



最近、思うことは、長年探求して来た鎌倉仏教などどうでもよくなってきたということだ。
元々、二宮尊徳先生の思想を探求する上で儒教を知る必要性から論語を始めとして儒教の経典に親しんでいるうちに、自惚れかもしれないが、儒学者の一人になったような気がしてきたことは事実である。儒学の核心は、各人の良心を国家に及ばせて国民福祉の向上にある。つまり居心地の良い社会の実現にある。儒学は、宗教とは違い、活用と応用を貴ぶ。そして何よりも人生を謳歌する思想なのである。
特に、わが国においては、貝原益軒先生の著作を以て儒学の道を指標された。そして,江戸時代は、鎖国の時代であったにもかかわらず、多くの学者を輩出した時代でもあった。それは、江戸時代が比較的平和な時代だったからでもある。ボクが探求して来た鎌倉仏教という宗教思想は、当時の、ある意味絶望的な社会、世相の反映というべきものである。
ボクは、もう法然、親鸞、道元、仏教ではない日蓮、等から卒業する時が来たのかもしれない。それは、ボク自身のネクラな姿勢から人生謳歌への転換なのであろうか?



訂正します。
橋本は橋下です。