果たして、天は僕の味方であろうか?別に名声が欲しいわけではないが、儒教を学んで考え、いままで哲学を探求してきた私だが、天は私を用いるだろうか。
言い換えるなら私は人から必要とされるだろうか。わたしの哲学や思想が、世の人たちに沢を与えられるだろうか?
わたしは、論文など書いたことなどないので、正直どこで発表するのかわからない。
思うに、情報処理に時間がかかるーつまり時間的に限定的な処理を要求される大学という機関には馴染めないーわたしは、自分に自信がない。そんなわたしは、天の導きがないと、一生埋もれてしまいかねない。わたしは、自分の哲学や思想が人知れず無になることがないことを望んでいる。わたしのように情報処理能力が遅い人間でも、哲学を独学で体得し、学問の道を歩むことが出来るということを証したい。わたしの学問探求の道は、行き着くところまで止まらないであろう。しかし、哲学の暫定的な真理は、人びとに活用されることに意義がある。それは人びとを啓蒙して、人びとを福祉に導くという使命を帯びている。論語の中の孔子のことばに、徳は孤ならず、必ず隣有り という発言があるが、わたしの哲学に何か徳があり、一人でも感化出来ればそれで生きてる甲斐があるというものだ。
ボクは、もりやざるそばなら具なしでも好んで食べるが、汁系なら、かけそばなんか絶対食べたくない。汁系の温かいそばなら必ずトッピングがないと気が済まない。駅の構内なんかの立ち食いそば屋でも、かけそばなど絶対注文しない。これは、ボクのプライドだ。かきあげやえび天がのったそばをこよなく愛す。ボクの理想とするそばは、トッピングがあり、こだわりの汁に、別にこだわりのないそば麺で、低価格のそばである。やたら手打ちにこだわったり、そば粉にこだわったりして、高価なそばなどは、ボクには必要無いのである。例えば、ただのもりそばなのにこだわって、千円もするそばなど無用の長物なのである。
最近ブラタモリに登場した、東京・日本橋の立ち食いそば屋のそばよしさんなんか、めちゃ好みのそば屋である。ボクの地元にもそばよしさんのようなそば屋があればな~と思うのである。
地元には、安価なそば屋が無いので、どん兵衛のそばシリーズがボクの気持ちをなぐさめる。特に、どん兵衛の鴨だしそばがお気に入りだ。それに、自宅で食べる、えび天そばも大のお気に入りだ。
とにかく、ボクは、かけそばなど絶対食べたくない!そして、高価なそばなど要らないのである。
最近ブラタモリに登場した、東京・日本橋の立ち食いそば屋のそばよしさんなんか、めちゃ好みのそば屋である。ボクの地元にもそばよしさんのようなそば屋があればな~と思うのである。
地元には、安価なそば屋が無いので、どん兵衛のそばシリーズがボクの気持ちをなぐさめる。特に、どん兵衛の鴨だしそばがお気に入りだ。それに、自宅で食べる、えび天そばも大のお気に入りだ。
とにかく、ボクは、かけそばなど絶対食べたくない!そして、高価なそばなど要らないのである。
映画コーラスラインのエンディング曲を聴いてると、「それぞれの人生に、乾杯!!」と、なぜか祝福したくなる。そんな気持ちにさせてくれる。しかし、世の中、周りをみると自分から見て不愉快な人間が少なからずいることは事実だ。それは、相手の人間性がわからないことからくる誤解もあると思うし、話しことばから分かるイデオロギーの違いもある。しかしながら、人間みな同じ目的地へ向かう人生というものを歩んでいる類的存在なんだと感じることもある。
思うに、われわれは、生を受ける前には、霊的存在であり、生を受けると同時に脳と共に肉体というある種限界的な領域に束縛されて人生という道を歩んでいるとおもわれる。
つまり、思い煩うもことも人として当たり前のことであり、あまり深刻に悩んでもしょうがないと思うのだ。しかし、悩んでしまうのが、人の性なんでしょうね。
ある意味、悩んで もしょうがないことに悩むことを体験することが人生なのでしょうか?
その解決方は、ある人たちには宗教であり、ある人たちには哲学であったり、…。
突然ですが、政治というものは、社会的に優先的に救うべき人を救うことが政治の使命だと思います。
思うに、われわれは、生を受ける前には、霊的存在であり、生を受けると同時に脳と共に肉体というある種限界的な領域に束縛されて人生という道を歩んでいるとおもわれる。
つまり、思い煩うもことも人として当たり前のことであり、あまり深刻に悩んでもしょうがないと思うのだ。しかし、悩んでしまうのが、人の性なんでしょうね。
ある意味、悩んで もしょうがないことに悩むことを体験することが人生なのでしょうか?
その解決方は、ある人たちには宗教であり、ある人たちには哲学であったり、…。
突然ですが、政治というものは、社会的に優先的に救うべき人を救うことが政治の使命だと思います。
ボクは、岩波文庫で法然上人の選択本願念仏集を読む以前に、日蓮の念仏無間地獄抄を読んで正直びびったことは事実である。それは、日蓮を日蓮宗の開祖として、日蓮を聖なる存在という思い込み、先入観があったからである。しかし、上記の法然上人を読み、法然の思想が弱者の視点に立ち、観念的ではあるが、念仏を弱者救済の手立てとしたことを高く評価している。それに対し、日蓮は、人よりも法を優先したのである。
法然はなによりも弱者救済を優先した。
もはや、ボクにとって、日蓮は聖ではなく、魔であり邪僧なのである。日蓮は法華経の中に釈迦を求めたために実際の釈迦とは真逆な思想に陥り、純粋というか、狂信的になったのである。
思うに、釈迦は、大乗仏教の術語でいうなら、色即是空空即是色を悟り、それに倫理的な意味づけをしたのである。つまり、苦しみのもとは、対象への愛着や執着であり、その対象というものは実体などない。どうして実体のない対象に執着する必要があろう。苦しみから解放されるには、実体のない対象への執着を絶つということである。これは、ある意味生の否定である。しかしこれは自殺の肯定ではまったくないので注意すること。
まあ、釈迦の思想も生きるためのアドバイスになるだろ。
ボクは、哲学するものであり、儒学者の一人と自惚れてもいるが、仏教の思想を否定するものではない。ただおのれために仏教など信仰するよりは、公共の福祉を思う儒教の思想に共鳴している。
わが国は、憲法で宗教の自由を認めているが、邪な宗教の存在も認めてしまうという欠点もあり、特に、日蓮系の新興宗教は、社会的に有害であることは、日本はもとより、外国でも同じある。外国でも有害とされる日蓮系の新興宗教は、日本の恥である。
法然はなによりも弱者救済を優先した。
もはや、ボクにとって、日蓮は聖ではなく、魔であり邪僧なのである。日蓮は法華経の中に釈迦を求めたために実際の釈迦とは真逆な思想に陥り、純粋というか、狂信的になったのである。
思うに、釈迦は、大乗仏教の術語でいうなら、色即是空空即是色を悟り、それに倫理的な意味づけをしたのである。つまり、苦しみのもとは、対象への愛着や執着であり、その対象というものは実体などない。どうして実体のない対象に執着する必要があろう。苦しみから解放されるには、実体のない対象への執着を絶つということである。これは、ある意味生の否定である。しかしこれは自殺の肯定ではまったくないので注意すること。
まあ、釈迦の思想も生きるためのアドバイスになるだろ。
ボクは、哲学するものであり、儒学者の一人と自惚れてもいるが、仏教の思想を否定するものではない。ただおのれために仏教など信仰するよりは、公共の福祉を思う儒教の思想に共鳴している。
わが国は、憲法で宗教の自由を認めているが、邪な宗教の存在も認めてしまうという欠点もあり、特に、日蓮系の新興宗教は、社会的に有害であることは、日本はもとより、外国でも同じある。外国でも有害とされる日蓮系の新興宗教は、日本の恥である。
宗教は、こころに悩みを持つ人には希望の光になるが、悩みの無い無邪気な子供に宗教の信仰を持たせることは、有害である。
宗教は、例えて言えば、目の前の飢えてる人に絵に描いた餅を見せて、あなたもわたしの信じる宗教を信仰すれば、ここに描いてある餅を食べることが、絶対出来ますよ。と、いってることに他ならない。
宗教は、例えて言えば、目の前の飢えてる人に絵に描いた餅を見せて、あなたもわたしの信じる宗教を信仰すれば、ここに描いてある餅を食べることが、絶対出来ますよ。と、いってることに他ならない。