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神奈川中学校校長 木村繁四郎(「農学校物語」p.196) 木村は青森県弘前藩士の家に生まれ、東奥(とうおう)義塾を経て札幌農学校へと進んだ。農芸化学の研究を志したが、家庭の事情から志望を変えて、教壇に立つようになった。明治二十一年(一八八八)卒業の札幌農学校第七期生であった。 栃木県師範教諭・宇都宮簡易農学校等を経て、明治三十年、創設間もない神奈川県尋常中学校へ首席教諭として招聘された。木村は、二年後校長に昇格し、大正十一年(一九二二)退職するまで実に二四年間、県下最古の公立中学、神中(じんちゅう)の基礎固めに心血を注いだ。 生来酒豪の木村は酒を断ち、まず環境の整備と教師陣の充実をはかり、校風の確立に努めた。鋭意人材の確保に努めた結果、人格高潔・識見豊かな実力派教師が集った。英語では外国人教師を招き、全国にさきがけて万国音標文字を習得させた。一高教授だった夏目漱石も神中卒業生には一目おき、「君は横浜か神戸か」とまず聞くようになったという。 木村は日本地理の本を著した木村は、校長の職務のかたわら自らも教壇に立って、物理・化学・数学・英語などを教えた。特に「修身」には力を注ぎ、先哲の訓えを例に道を説いた。柔剣道の寒稽古の折は朝五時半には登校し、率先垂範、全人教育を心がけた。 「自学自習・自律自制・和衷協同・克己復礼」 をモットーに、"Be gentleman" と説いた。 教養面にも心を配り、しばしば学者や文化人の講演会や音楽会などを開いた。 関東大震災・戦災という災害にあって、校舎は戸部から金沢八景と転々し、また学制改革で、県立一中・横浜一中・横浜一高と幾度か名称を変えて、昭和二十六年(一九五一)郊外の現在の地に移転した。(中山安房) |
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SL銀河に賢治の世界 釜石線・蒸気機関車の試乗会 JR東日本は2日、復興支援として4月12日から釜石線(花巻-釜石間、90・2キロ)で定期運行する蒸気機関車「SL銀河」の報道向け試乗会を行った。宮沢賢治の世界観を表した客車内は落ち着いた雰囲気で、高級感も漂う。釜石駅から遠野駅まで同乗し、約40年ぶりに復活するSLを体感した。(報道部・三浦隆博) 午前9時すぎ、釜石駅の検修庫で作業員がSLの炭水車に石炭と水を補給。同駅ホームで待機する客車と連結し、午前11時、客車内にも響き渡る大きな汽笛の音とともにゆっくりと走りだした。 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をイメージした客室は、2人ずつ向かい合うボックスシート。内装は茶色や赤色が基調で、窓の上のステンドグラスは高級感を醸し出す。 車内に多数ある賢治ギャラリーには、賢治の人となりや水彩画などのパネル。花巻-釜石間の約4時間半、数多く用意された賢治作品を手に取ることもでき飽きることがない。 復興への思いを乗せて沿岸被災地に向けて走るSL。JR東日本運輸車両部の照井英之次長は「SLに国内外の多くの方が乗ることで、復興の支援につながれば」と期待する。 |
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| 広井勇の家庭生活(「工学博士広井勇伝」より) | 2014年03月24日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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広井勇の家庭生活(「工学博士広井勇伝」より) 広井勇は、明治二十四年一月二十四日、愛媛松山において松山教会牧師二宮邦次郎の司会の下に大井上綱子と結婚式を挙げた。綱子は松山の生れで初め松山のミッション・スクールに学び、転じて神戸女学院に学んでいた時、広井と婚約した。『評論』によると、広井に綱子を紹介したのは、綱子の叔父(父の実弟)大井上輝前(てるちか)だった。彼は渡米経験のあるクリスチャンで、釧路の典獄(刑務所長)の時、受刑者の待遇を改善し、強制労働と体罰を厳禁にした。(p.147)当時、広井の母が札幌で相談する近親者がなく一人不自由であったため、綱子は一ヵ年の課業を残し結婚式後一緒に札幌へと向かった。 夫人を同伴して汽車で仙台あたりまで来たとき、同車していた一人の西洋人が平然と喫煙を始めた。広井は外人の前に進み寄って、『欧州文明のジェントルメンがノー・スモークの室内で、然もレディの前で喫煙するのは失礼ではありませんか』と流暢な英語で注意したので、外人は赤面恐縮した逸話がある。 広井は結婚前から五人の書生を同居させて、母と一緒に一家族のように同じ食卓を囲んで同じ食事をとった。結婚後もその風景は夫人が加わっただけで変わらなかった。広井は宴会は好まず、出張先でも地元の名士が広井のため宴席を設けても一切断った。 広井は衣服や食べ物はほとんど意を用いず、ただ贅沢を極端に嫌った。初めは一日中洋服を用いた。広井はミシンを求め、夫人に渡し、洋服の裁縫を命じた。夫人はミシンを触るのは初めてだったが古いズボンを解体し型を取って一着のズボンを新調した。 書斎も質素で、窓には茶褐色の防水用ブラインドが取り付けられ、窓のガラス戸は上げ下げ式で、永年の風雨で窓枠が損傷しても、自ら大工道具をもって修繕した。寝室も二十五年使い古し、子息が留学から帰国の際、父の寝台が余りに粗末であるのに驚いて、アメリカから取り寄せようとしたが、広井は「キリストは枕するところさえあられなかった。こんな寝台でも勿体ないくらいである」と固辞した。 子女の教育にあたっては、すべて夫人にまかせたが、勉学の態度や礼儀作法に正しくないものがあると、夫人を呼んでその注意を促すのが常であった。 広井の生活は規則正しいものであって、朝は必ず五時に起床し、夜は九時に門を閉め、十時には終身した。広井は素肌を現わすことを嫌い、入浴中も浴室を締め切って家人をも入れなかった。 広井は、自ら少年時代苦学した経験から同じ境遇の青年に深い同情を寄せた。世話をした書生が借金に来ると、十円という者には十五円を与え、「これで必ず身を立てろ、決して金を借りるものではない。人間の立志を挫くものは借金である」と諭した。家人が「あんな人を世話したって仕方がないでしょう」という人でも「自分が困った時の事を思ふと、中々そうではない」と言うのが常であった。 札幌農学校工学科の教授時代、学生に対する教授は厳格であったが、教授以外に関しては学生を厳父のように庇護した。広井の母も学生の世話を好んだから、札幌の広井教授宅は学生でにぎわった。 広井が我が家として家庭を営んだのはドイツから帰朝した明治二十二年の初夏で、札幌幌北一条西五丁目の一戸の洋風住宅であって、家賃九円だった。 広井は佐藤昌介、宮部金吾らと共に各千坪の土地を札幌郊外の苗場村に購入した。これは北海道開拓上の手段として、上級官吏に義務的に要求されたものであった。広井は苗場村二丁目の千坪の土地に自ら設計する住宅を建設した。木造平屋建て、間数八室で、防寒・防風雪の質素堅牢な構造であった。 札幌苗場村の自宅は、札幌市から郊外に通ずる広い街路であり、書斎から街路の交通がよく見えた。 荷馬車の馬が疲れて動かないような時に、馬方が殴ったり叩いたりすると、広井は家から走り出てきて、非常な声で馬方を叱った。平素は家庭でも人を叱ったり大声を発したりすることはなかったが、動物を虐待する人に対しては常に猛烈に反省を促した。 |
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