「工学博士廣井勇伝」の九十三ページ「十六信仰」を現代語表記(『 』内は原文)で抜粋する。
「広井博士は熱心なキリスト教徒であった。けれども博士はその信仰を他人に説いた事がなかったから、永年の友人すら、これを知らなかった人も多いほどである。まことに大富は貧なるがごとく、大賢は愚なるごとしである。けれども博士の信仰はその深さとその真摯さとにおいて、何人にも譲らないものがあった。
信仰に入る動機は人によって様々である。ある人は研究の結果より、ある人は心に罪を感じたるより入る人もある。しかし博士においてはむしろ、生に対する尽きることがない懐疑によって、神の道に入ったのではあるまいか。博士は人をして凄愴の感を抱かしめるほどの懐疑者であった。その悩むところが深刻であっただけ、それだけその信仰は深かったのである。何者をも信ずることのできない無限の空虚を、神によって充たしたのである。そして全的の信頼を神にささげたのである。
博士は毎朝五時に起床し、清嗽〔せいそう・口をすすぐ〕の後、一室に籠もって錠をおろし、聖書を読み、双掌(そうしょう)を机上(きじょう)に置いて頭を垂れ、黙祷をささげること数分であった。この祈祷は四十年来変わる事なく続けられた。その錠をおろした一室の祈りこそは、博士にとって総ての力の源泉であったのである。博士はそこでただ独り、自らの魂を神に触れしめ、神の心を自らの心とすることができたのであった。そしてこの祈祷の後、机上にはしばしば熱涙の跡を認めたという。
博士の家人は四十年来、毎夜九時に祈祷の集まりを催して来た。しかし、博士だけは、自分の信仰は少し変わっているからといって、いかに勧められてもその席に連なろうとはしなかった。ただその集まりを喜んでいた。時には、もはや九時になるといって、家人を促すくらいであった。日曜には家人に教会へ行くことを勧めて、自らは独り静かに聖書を読み、安楽いすに寄って哲学・宗教・文学等の書物に読みふけるのを唯一無上の楽しみとしていた。キリストの尊厳を信ずる博士にとっては、軽々に衆とともに祈りをするに耐えないものがあったのではあるまいか。しかし博士は祈りの人であった。そして総ての人の祈りを力強く感じていた。
「人間にとって祈祷は最も主要な事である、実際人間には祈祷より外に施すべきすべはないのである。自分の如き者は素質に於て、決して天才と云ふ質ではない。他人が三日にて成就する事も自分には一ヶ月もかかるのである。其点からしても、只祈りと努力があるばかりである、どうぞ自分の為めに祈ってくれる様に、祈りにました援助はない」とは、広井が繰り返し家人に語っていた言葉である。人に対して毅然たる博士の一面には神に対し幼子のごとき謙遜があり、信頼があったのである。そしてことに母と妻の祈祷をこの上もなき助力としていた。何事かをし遂げ、または何事か災厄を免れ得た場合には、いつも母と妻の祈りによる賜物であるとある心からの感謝を述べるのであった。
博士はたとえ友人であっても、学校関係や技術方面の人には、決して宗教上の問題を口にしなかったが、内村鑑三氏や新渡戸稲造氏等同信の友人に対しては、老後までもよくこの問題について論じ合い、より深く、より清くその信仰を進めるようにつとめた。
これら信仰の友人間の交わりには、誠に和気藹々(あいあい)たるものがあった。『自分は死んでも天国には入られないかも知れないが、天国の門番位にはなれるつもりである。自分が天国の門番になっていると君等もやがてやって来るだろうが、君等はは天国へは入れないよ、入れないで追ひ返してやる。』と、内村氏や新渡戸氏には笑談を語ることがあった。
博士は平常から、遺言書を書いてこれを金庫の中に蔵していた。それがため突然永き眠りについたのではあったが、報知、葬儀、その他万般の事が書き残されてあって(1)、少しも惑うところがないようにしてあった。これは何時たりとも、召しに応じて天国への旅に出発する準備を整えていたことと察せられる。
博士がキリスト教の洗礼を受けたのは明治十一年六月二日の日曜日で、博士が札幌農学校二年生の時の事である。その日は博士ら六名の同窓にとっては永遠に忘れ得ない日であった。函館から年一回づゝ巡回して来た米国メソジスト教会宣教師エム・シー・ハリス氏によって午前十時第一回の説教があった。午後三時、第二回の説教と祈祷の後に、彼によって洗礼が施された。博士等はその前にひざまづき、水は頭にそそがれた。彼らのうちには生涯を通じてキリストの僕(しもべ)たるべき、かたき決心のため心自ずから戦(おのの)くものがあった。彼らはウェブスターを開いて各クリスチャン・ネームを選んだ。新渡戸氏はポーロ、藤田氏はヒュー、高木氏はフレデリック、足立氏はエドウィン、宮部氏はフランシス、内村氏はヨナタン、そして博士はチャーレスと呼んだ。今は全くキリスト教徒となった彼らは、凱歌を挙げ、新しき生涯に勇んだ。その夜更に第三回の説教と祈祷会とが催された。
内村氏は、その著、"How I became a Christian"中に
「チャールズ〔広井勇〕は複合的性格であった(Charles was a compound character.)。彼はその機敏な常識においてわずかにフレデリックに劣るだけであったが、しかしキリスト教に対する知識的態度においてはいっそうに似ていた。彼は多くの熱心な青年のように神と宇宙とを彼の知識の助けをかりて理解し、自分自身の努力によって神の永遠の律法に文字通り自分自身を一致せしめようと試みた(He like many other ardent youths tried to comprehend God)が、それに失敗して彼はキリスト教のまったく異なった一面に傾き、「善きわざの福音(gospel of good works)」を信ずる彼の信仰に落ち着いた。彼は学識ある技術者となるようになった(He turned to be a learned engineer)。そして実質的な形をもってする彼の同情(his sympathy in substantial forms)は、教会の内部たると外部たると何か実際的の善事(some practical good)が意図されているとき、つねに信頼することができる(can always be relied upon)。」
右は当時の博士の信仰を伝えるに最もよき資料といいえよう。
当時の晩年にいたって、ある時、博士は次のごとく語ったことがある。
『晴夜天空の星のまたゝきを眺めて居ると、其の悠久さと、其偉大さと其壮美さとに実際打たれる、神は悉(ことごと)く之れを統(す)べ給ふのである。其幾億光年に比べては人生は実に朝露にも例(たと)へられない。其中の人間などが、神の経綸の中に数へられることなどゝは考へることも出来ない・・・・・・けれども此の人間に神に通ずる所のものが在るのだ、夫故(それゆえ)に人生が尊くあるのだ・・・・・・政治も、権力も、名誉も、学問も、何の値もないものだ』
また言ったことがある。
『神は吾々の智識を祝し給ふ、学問は此の意味に於て尊くある』
『若し工学が唯(ただ)に人生を繁雑にするもののみのものならば何の意味もない事である、是によって数日を要する所を数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、人をして静かに人生を思惟せしめ、反省せしめ、神に帰るの余裕を与へないものであるならば、吾等の工学には全く意味を見出すことが出来ない』
博士の工学がことごとくその信仰中心であったことは、これによってもその一半を窺うことができる。
(1) 内村鑑三の日記において、広井勇の遺言の内容の一端を窺うことができる。「故工学博士広井勇君の遺言により聖書研究会へ寄付してくれてありがたかった」
「今日広井の未亡人の訪問あり、『佐藤総長の手紙は棄てました。先生(僕を指して)の御手紙はハガキ一枚も残さず大切に保存してあります』と聞いて、涙がコボレました。」
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