留学談 常瑤居士(じょうようこじ・新渡戸稲造)(「蕙林(けいりん)第一六号-札幌農学校予備科内学芸会p.57) 記者〔筆記者・西川光二郎〕いう。演説筆記は例えば塩素ガス中に入れし花、塩せし蛭(ひる)の如き者にして、色沢もなく、勢いもなく、誠に人を圧殺せしむるものなり。況んや不筆なる吾人、雄弁舞うが如き先生の演説に記せしに於いておや。その差ただに月と泥亀のみならんや。然れど願う所は諸君の想像になん、同情になん、もしこの筆記にして先生が演説の形骸の幾分なりとも伝うることを得ば記者の思い足れり。 学生生徒諸君中、往々、外国留学に関して余に問い合わさるるもの少なからざるより、今日機を得て諸君に談ぜんと欲す。余が農学を志す前に当たりてや、法律を修めて法律家たらんことを期し、遂には一躍参議の高官にも昇らんことをねがえり。然るに明治八年の頃、余がなお東京大学予備門〔東京外語学校〕にありしとき、某化学士〔堀誠太郎、当時開拓使役人で後に札幌農学校教授、クラーク通訳者〕かつて一夕の談話をもって余らに向いて日本将来の文明は科学の力によらざれば進歩せざることを述べられたり。当時余はこれを聞きて感激おくあたわず。忽ち参議たらんとの大望をひるがえして、志を科学に転ぜんと思えりといえども、未だいかなる学科を修むべきやは定まらざりき。然るに明治九年恐れ多くも天皇陛下奥羽ご巡幸の際、亡父の家〔岩手県三本木〕、行在所となりしが、かたじけなくも祖父〔傅〕及び亡父〔十次郎〕の拓殖事業に関して綸言を賜わり、かつ子孫永くその業をつぎて力を農業に致せとのお言葉を賜わりたり。この綸言を賜わるや三人の兄弟中、嫡男は流水事業に身を委ね、次男は学農社に入りぬ。時、あたかも札幌農学校開校の時にしありたれば、余は之に入らんとせしも、未だ適当の学齢に達せざれば、その翌年の来るを待てり。かくて、いよいよ入学し得て課程を修めしに名は農学なれども、その実いわゆる雑学にして折角志したる農学の真味を知るあたわずして終りぬ。在学中、ややもすれば他学に転ぜんとの傾向ありしかども、右に述べたる綸言により意を決して農学の範囲外に逸せざらんことを勉めたり。 明治十四年卒業せし時は、余が齢なお十九歳に満たずして官に奉職せりといえども、用をなすに足るべくもあらず。しばしば東都に出でて遊学せんことを願い出でたれども奉職の義務に迫られ、心ならずも奉職すること年余、いよいよ辞職の許可を得て明治十六年大学に入り経済学英文学及び史学を修むることとはなりぬ。然るに未だ全く心に満たざる所あり。一層進んで学術の蘊奥(うんのう)を極めんと欲し、かつて幼少の頃、志したる洋行の念、勃然(ぼつぜん)として起こり禁ずるあたわざるに至りたり。たまたま在米の一友人、余に送るにヘンリー・ジョージ著「進歩と貧窮」なる一書を以てす。この書の好評は外国新聞雑誌により、しばしば耳にせる所なりしも、当時東京横浜の書店はもちろん東京大学の書庫にすら未だこれを備えざりき。そもそもこの書たるや、当時を去る七年前出版せられてより既に各国語に翻訳せられ、発売の数幾千百部なるを知らざるものなり。これを以てこれを観るときは、我が日本の学問は少なくも七ヵ年おくれたるものなるべしと思惟し、ますます洋行の念を長じてここに始めて渡航の準備を着手することとはなりぬ、・・・・・・。 余、農学校在学の頃より海外に赴(おもむ)かんとの望みを有しおりしが、その目的地に関して最も望みし所はスコットランドなるエジンバラ大学にして、しばしば同大学の科目を眺めて想像をえがきしこともありき。いよいよ洋行せんと決したるのとき、まず心中に浮かびしは、いずれに行かんか、何の学科を修めんか、金はいかにして得んかの三点なりき。第一、 行かんとする所は、まず米国と定まる。第二、 何の学科を選びしかを述べんに、余は大学にて文学博士などに学びしが、前にも談ぜしごとく陛下のお言葉もありし次第なるを以て、断然農業経済を修めんことに決す。第三、先立つものはお金なりけり。実に最も大切なるは金の工面、しかして最も困難なるもこの工面、余はいかに頭を左右に振るも別に新考案出でず。遂に養父なる叔父某〔太田時敏〕に頼まんとせり。然れど当時叔父の家、貧にして公債証書二千円ほどよりあらざりけり。 ある時、余はもと南部の家扶〔かふ・華族の家の職員〕なりし某氏の宅におもむきしに、彼はしきりに微笑しながら、突然「君のうちにおめでたきことあらずや」と問う。余は無し、ただいささか余の書室を修繕しつつあるなりと答えつるに、彼は不思議なる顔をなして「実に知らざるのにや。君のうちに結婚式の遠からず挙げらるることをと」。余驚き、誰にと問えば、彼は真面目に君にと答え、なお語をつぎて曰く、日光におる某氏の媒(ばい)にて某大家の令嬢と婚せんとの相談既に調えとのことなりと。余大いに驚き、今洋行せんとするの矢先に僅かに三十円の月俸取るとて一人前と見られ、妻君など迎えられては大変と、直ちに帰り満身の熱血を注ぎて、韓退〔かんたい・唐の詩人・韓愈〕これも裸跣(はだし)てう長文を物(もの)し、叔父君には二三日朋友の家に行きてくればこれの文(ふみ)読み置きたまえとて出(い)ず。 叔父は余の文を見て少しく感ずる所や有りけん、洋行の一件相談すべければ帰れと言う。余、命に応じて帰宅せしに、彼は幾年なりやと問えり。余は十年の心算なりと答えるに、彼は何とぞ三年にて帰国せよという。余固く取りて動かず。遂に彼は余の決心を許し、ひとまず前の約束を破らんとせしが、何分気の毒の至りなれば、彼れ、一首の和歌を作りて先方に送れり。その後なお三年とか、五年とか、やかましき相談ありしが、余が勃々(ぼつぼつ)たる進歩の精神により、遂に勝ちを制することを得たり。 時に叔父君は士族の商売、言わずと知れたる失敗にて、大いに困難の域に沈みおりしが、幸いに余に千円を与えられたり。 それより余は当時、水戸の山奥なる月居(つきおれ)に掘割しつつある技師、余が実兄〔新渡戸七郎〕の元へ三日ばかりの旅行なして至りたり。かくかくの次第にて洋行せんとするなれば、少しく金子(きんす)投与せられたしと述べしに、彼はこころよく、われは兄にてありながら未だ何も汝を助けしこともあらざれば、このたびこそは工面せん。金は幾許(いくばく)要するやと問う。余は余り多く言わざる方、かえりてためならんと思い震えながら三百円と答えしに、彼は三百か、それは僅かならずやと言えり。時に余は大いに残念なりしが、再び言葉を新たにすることもなりがたければ、それを受け取り、ここにまず千三百円を手にすることを得たり。 かく一方に奔走しつつあるにも係らず、余は少しも他人にこの事を談ぜず、まさに出立(しゅったつ)せんとする七日前、始めて心当たりの人々にこの事を談じぬ。また出立せんとする前一日学友一人来る。彼曰く、いつまで君は大学にて徒らに日を送るかと。余は東の方に向かわんとすと答う。彼は千葉県かと言いしに余はなお東なり。明日は知れんと言うぞ面白き。しかし先輩諸氏には相談して考えを借らざるべからざるなり、・・・・・・余は大学にあるとき専科生なりしが、僕は決して学者的の脳を有する者にあらずといえども、まず大学生としては耐え得るの力ありしと見え、少しく勉強すれば相応なる点数を得るに難しとせざりき。(しかし数学は殊別・・・・・・時に満場哄笑)故に某先生などの知遇をこうむり、しばしば本科になれと言われしが、ただ四角な文字の恐ろしさに意に従うあたわざりしは残念なりき。・・・・・・ まず第一に余は同県人なる某法学博士の元に至りしに、彼は文学博士にも言うてくれよと言う。余は直ちに文学博士の宅におもむきしに先生はドイツに行くべしという。しかし余はかくかくなりと言えば、先生然らばアメリカにても不可なしとて添書など賜る。それより理財先生の所に行きしに、先生は止め、かつ曰く。僕のうちに二年間おるべし、「アメリカよりも上等に教えてやらん」。しかして二年後は僕と法学先生との合力にて君に学資を送るようなさんと。然れども今まさに出立せんとするの一刻、二年も待たんとは思わざるの事にて、余は空しくその厚意を辞す。水戸より東都に帰りて後、余は早速千円を銀行切手となし、これを母の給いし胴巻きに入れ、いわゆるヘソクリ金となしぬ。時に不思議にもただ名のみ知りて未だ面識なきキリスト信者の中、富者の聞こえある某君より、いささか頼みたきことあり。しばしば君を問いしに不在にて意を果たすあたわず。君何とぞ拙宅に来臨せられよとの意にて一信ありたり。余は自ずから彼、余の洋行せんとするを聞き、金にても貸さんと言うならんかと思い、何はともかく行くことに決し、東京の田舎なる氏の寓居(ぐうきょ)を問う、某君大いに喜び、まず種々に余を歓待なしぬ。その夜は彼が宅に宿(しゅく)す。 水も寝(い)ぬるてふ丑満時(うしみつどき)、彼ら夫婦燭(しょく)を手にして余の所に来たり、余を起こして、さて言うよう、僕遠くよりアメリカに遊ばんと企ておりしが、十分に英語を解するあたわざるゆえ、誰か善き同道者もがなと思いおりしに、幸いに君の洋行せんとするを聞き、かくは招きし次第なれとて、・・・・・・妻を顧みて茶を入れにいかしめ、のち余に耳語〔じご・耳打ち〕して曰く、ところが、余の妻ぜひ洋行したしとて、しばしば止むるも聞かず、君もし妻を同道するを以て不可となさば請う、余の妻に一言したまえと。余は直ちに妻君を説得せしめんものと種々に言いなし、ひとまず某君先に行き、もし善からば妻君も後より来たるべきこととなす、・・・・これよりいよいよ準備に着手せり。 まず七円五十銭を出して褪色(たいしょく)せる不恰好(ぶかっこう)の洋服を買求し、「マントル」もがなとて、父の古「マントル」を、うらがえして作り、古本は売りなどして全く用意調(ととの)う。 時にかつて札幌に来たりしことある宣教師ハリス君より、僕の妻、サンフランシスコにおれば必ず立ち寄られよ、決して悪しくはなさざるべしとて手紙賜る。実に余が貰いし手紙は皆モールスなど学者に対する添書にして、親切なる手紙とてはこれ一本なりしなり。 かくしていよいよ出立(しゅったつ)の日とはなりければ、余は数人に見送られ新橋よりして横浜に向かう。ただ叔父のみは横浜まで余を送りたまいしが、余は独り前途遼遠なる異域に向かいて僅少の金銭を懐にして出立せんとするなれば心中何となく寂しく感じ、叔父に別るるを惜しめり。  別れてはまた逢うこともありぬべし    などかおしまん今日の別れを 余は船に弱き方なるを以て某君と共に八十円を出して中等室に入る。下等室には日本人七人、シナ人四五百人ばかりありたり。 船は汽笛を残して横浜を出て相房〔神奈川・千葉〕の風景後に走り、芙蓉〔富士〕山頂次第に沈むに及び、余は種々の思いに沈み、実に精神一到何事か成らざらん、思いと言う者は恐ろしき者なることを悟り、「神頼みはうっかり頼めぬ」と感じたり。 僕は小児の時、参議たらんと思いおりしが、今は僅かに農学校教授としてろくろくたり。然れどもこれ余の満足せるの点にあらざれば、いつかは余の思う所に行くなるべし・・・・・たとい余の至りし所、始めの思いといささか異なりとするも、全幅の精神を傾注して至りし所なりせば、余はその所を以て始めに思いし所という故は決して失望すべからず。一念の熱注する所、泰山挾んで北海を越ゆ。またなし難きにあらず。然れど時を待たざるを得ず。・・・・・・ 時まさに満月の頃にして、夜半甲板に出で太平洋の波静かなるに寂然として地平線上に月の登るを見たるときは何とも言われざる感情起これり。由りて余の如きすら古今集にも優る名歌を作る事を得たり。  限りなき青海原をすみ渡る    秋の月こそさびしかりけり 余は生来、物ごとに憂い多きものなれば、秋のたそがれには堪えざるほどに気沈む事あるは普通のことなるが、今こそは数年来の宿望を達する途中なり。かつは今弱き思いを出して疾(やまい)にもかかりては一大事と勇みしかば、何となく鬱き心地を免れ、歌に名高き秋の昏(くれ)も常とは自然に異なれり。  いつ方も秋の夕辺は変らじと    聞きしに変る今日の夕暮 船中別に記することなし。余と言葉をかわせしはロシア人なる医者某氏にして種々の親切らしく余に問いしを以て、余は英国ドイツにも遊学せんとする者にして経済その他英文学を修めんとする者なりと答えつるに、彼再び口を開きて曰く、我に良法あり。二週間(サンフランシスコに着するまで)一日一時間ずつを以て、よく君をしてドイツ語フランス語に通ずることを得せしめんと。余は「ロハ」ならんと思い(疑いながらも)大奮発して二時間ずつと願う。彼喜びながら、僕かつて日本の貴族を教えし節、礼として一時間二五ドルを受け取りしが、君は特別にて十ドルとなさんと言う。僕心に驚きつつ、僕貧書生なればあたわずと言えば、彼然らば五ドルと、余はそれより時間を減ぜんものと船に弱しとの口実を作り、・・・・・・遂に意を決し、なるべく彼に遇わざらんとするに、彼は遇うごとに午前には前日の事いかんと言い、午後には午前の事いかんと言う。余は次第にうるさく、かつ恐ろしくもなりしが、断然意を決し一日彼に向いて余は君の語学教授法を信ぜずと言えば、彼色を変じ種々日本人を教えたりという例を引けり。然れども余は信ぜず。一文(もん)も汝に与うるあたわず。もし汝に与うるの金あらば、これより海中に投ぜんと言いつるに、彼頻りに囁嚅(しょうじゅ)なしおりしも別に余を害することなかりき。ただ遇うごとに以来一言も発せざりしのみ。 船客の中スコットランド人なるケンブルという六十余の老人あり。その強壮なること実に驚くに堪えたり。彼は毎朝潮水を頭よりかぶるなり。余はアア壮かなと思い、外人が老いてなお矍鑠(かくしゃく)たるを感じぬ。 船客中ニュージーランド人某氏あり。彼は三十前後の青年、余は田舎人と思いしに、種々日本のことなど余らの知らざる所までも話し、また欧米の事も話しくれたり。余はこの人に世界漫遊の費用一日いくばくかと問いしに一日十五ポンドと答えたり。 余は元来船に弱きが故、ほとんど毎日気色よからず、室外へ歩行するさえ、なかなか骨折り仕事の如く思い、船の役人の面を見るごとに入港の何日なるかを尋ねざることなし。  指折りつ骨をたりつ数へ行く    今日よりさきはいつが六日と。

十億の人には十億の母あれど 我が母にjまさる母ありしや


明烏(あけがらす)敏(はや)という浄土真宗のお坊さんの 歌 です


十億の人には十億の母あれど 我が母にjまさる母ありしや


いい歌ですね、人の子の真情を尽くしている


十億の人には十億の母がある。しかし自分の母親にまさる母親があるだろうか。


ほかの人のどんなに素晴しい、立派な母親でも 自分の母親ほど自分に愛情をそそいでくれる人はこの世のなかにいない、ああ、お母さん、ありがとうございます という深い詠嘆がこめられています。



○○には公立が139校、私立が81校、240の高校があります。


○○には240の高校あれど ○○高校にまさる高校ありしや



そうもいえます。だからこそ 母校 なのです。


あなたたちが卒業して 何年かたって 母校をふりかえるとき


ああこの高校でよかった そういう感慨になることでしょう 


それほどこの高校は素晴しい高校です


そしてそういう高校にするために あなたち一人一人が努力して


素晴しい人生を創ってくださることを心から願います



米男性が骨董市で買った装飾品、ロシア皇帝の「金の卵」と判明

2014年 03月 24日

[ロンドン 20日 ロイター] -米国の男性が骨董市で1万4000ドル(約143万円)で購入した金の装飾品が、実際はロシア皇帝が宝石師ファベルジェに作らせたイースター・エッグであることが分かった。実際の価値は2000万ドル程度とみられる。

米中西部に住むくず鉄業者の男性は骨董市でこの装飾品を購入し、くず鉄として売ろうとしたが、買い手は見つからなかった。その後インターネットで調べたところ、ロシア皇帝アレクサンドル3世が1887年にファベルジェに制作させ、皇后に贈ったイースター・エッグである可能性が高いことが分かったという。

男性は英ロンドンの骨董品取引会社ウォルツスキーに鑑定を依頼し、同社が顧客のためにエッグを買い取った。同社は男性や顧客の身元、取引価格などは明らかにできないとしている。

男性が「金の卵」を入手した経緯についてロイターは確認はできていないが、ウォルツスキーのキエラン・マッカーシー氏は「骨董品取引という仕事柄、全てを疑うが、このような話はでっち上げることはできない」と話した。

ファベルジェは1885年から1916年にかけて、ロシア皇帝のために約50個のイースター・エッグを制作した。