”栗鼠の遺言”meets.てんぱりまっくす | てんぱりまっくす~あるいは、スクナビコナ~のブログ

てんぱりまっくす~あるいは、スクナビコナ~のブログ

一度ツイッターに浮気しましたが、やはりこちらのほうが落ち着くようです。

ただいま(/-\*)



 


はじめに~一人謝罪会見~


この記事は笑ちゃんさんの記事の内容やナウでヤングな異界ハンターさんの記事の内容をなぞったものではありません。お二人の記事から喚起されてひねり出した文章です。悪しからず、ご了承くださいお願い

つまり?


「会話」を通して人は、己の中にある心臓を手探りで探しあてる。


いや、違う。


人は常に孤独である。「会話」しているときでさえ。

ただし「会話」自体が上滑りしても、人は自分が持っている読み札から絵札を引き当てることができる。


いや、違う。


人は常に「答え」を既に手にしている。他者というノミがそれを彫り刻むことで「答え」は姿を現すのだ。


近いかな?


満開の桜が舞う。桜の花びらの一枚いちまいは言の葉一枚いちまいだ。このとき、「詩人」は桜の花びらだろうか? あるいは、桜の樹そのものだろうか?


脱線したまま、今回のブログはお開き絶望