阪神淡路大震災から23年 | IN THE WIND

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自分のための備忘録。音楽とスポーツ観戦、飲み食い、時々本と映画
Don't think twice, It's all right !

きのうで、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災から23年になった。当時、僕は京都の郊外都市に住んでいて、人生で初めて地震の揺れで跳び起きた。妻と前年7月に生まれたばかりの長女と川の字で寝ていたので、周りのタンスや本棚が倒れないように必死で押さえていたのを覚えている。

 

不安がる妻らを残して6時半前には家を出て仕事に向かった。京都でもそれなりの揺れがあって関係先を回って10時ごろに職場に戻り、初めてテレビのニュースを見た。神戸の街の衝撃的な映像が目に飛び込んできた。僕も92年春から94年春まで神戸に勤務、在住していたので言葉も出なかった。

 

その日の夜、神戸の職場に応援に入ることになった。陸路は使えないので、大阪湾を隔てた泉佐野の漁港から漁船をチャーターし、非常食や水、軽油(自家発電機の燃料)なども積み込んで神戸を目指した。神戸沖にさしかかり、オレンジ色に燃えさかる神戸の街を目の当たりにし、まさに言葉を失った。

 

その炎の異様な明るさが目に焼き付くとともに、摩耶山にあるKOBEの文字と、神戸市の市章のネオンサインが普段と変わりなく灯っていたのが不思議だった。後に、これらのサインが灯っていたことで勇気づけられた人がいたと聞いて、改めて僕は当事者でないことを痛感したことを思い出す。

 

チャーター船はメリケンパークに接岸したけれど、護岸も一部崩壊していて、荷物の積み下ろしに苦労した。両手に水が入ったポリタンクを提げ、エレベーターの止まったビルの非常階段を7階まで上がった。自家発電の燃料の軽油は25階の屋上まで階段を昇って運んだ。

 

幸いと言っていいのか、僕は身近な人や知人を失うことはなかった。それでも、崩れ落ちた建物のがれきや、数日間燃え続けた果ての焼け野原を前に、言葉を失うとはこういうことかと思い知った。「天変地異」という四字熟語が、単なる知識から体験へと変貌を遂げた瞬間だった。

 

僕には、被災した誰かを直接、励ましたり、癒やしたりはできない。街の復興に具体的に貢献しているわけでもない。このブログでも毎年同じようなことを書いているけれど、たとえ年に1回でも、神戸の震災のことを改めて記すことが、ささやかだけれど、僕にできる震災の記憶の継承なのだ。

 

【17日の備忘録】

朝=ご飯1膳、ハタハタ一夜干し、リンゴ、昼=ご飯1膳、豚ショウガ焼き。飲酒=赤ワイン10杯。体重=63.2キロ。