狙撃者 ~ 18歳嫌悪の狙撃者 渋谷乱射事件 | いつも 0-40   

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私の名前はMAMA DAISUKI
完全無欠の落ちこぼれテニスプレーヤー
テニスを始めて5年目いまだ連敗記録更新中
やっすい時給で頑張ってるのはテニスのため
練習していつかあこがれの草トーに挑戦
いつかきっとゲットできるはずの1勝めざして今日もコートへ

和歌山市の建設会社で
4人が死傷した射殺事件ヾ( ̄o ̄;)
事件発生から約58時間
容疑者が自身を撃って
搬送先で死亡 o(_ _*)o
終結したね


戦後初の乱射事件は
高度経済成長を遂げていた

1965年の7月29日 に起きている

 

和暦だと昭和40年だね d( ̄  ̄)
終戦からちょうど20年…

 

事件の始まりは通報だった*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

午前11時
神奈川県高座郡座間町で110番があった
通報を受けたのは神奈川県警大和署

"山中で子供が空気銃を撃っている "

緊急性は低いとの判断で田所康雄巡査は
一人で現場確認に向かった 
ヘ(* ゚-)ノ

駆け付けると少年がスズメを撃っていた

 

        少年は片桐操
        この年の4月18歳になったばかりだった

        東京都世田谷区裕福な家庭の末っ子
        姉2人 兄1人の4人兄弟

        小学生時代から銃や兵器が好きで
        ミリタリー雑誌「丸」を愛読してた
        
        ※「丸」は日本の軍事専門誌 潮書房が出版してるね

 

        そ…そ 犯人像ね (-。-;)

        勉強はできなかったけど身体は

        大きかった社交的で小学4年生の時

        実母が他界した後やってきた父の

        後妻とも継母ともうまくやっていた

 

         中学3年の時 父親に玩具の銃を

        与えられた 父親は元陸軍上等兵

        息子の趣味には理解があった

 

        本物を欲しがる息子に間違っても

        人を殺すなといつも言い聞かせていた

 

        中学卒業の祝いにライフルと

        照準器を買ってくれたのはお姉さん


        "22口径5連銃 MasterRifleNo.3"
        18歳以上しか所持できないから

        もちろん名義はお姉さん

 

        中学卒業後自衛隊に志願
        でも合格できなかった
        仕方なく自動車修理工見習いに

        なったけど続かず国内航路の

        タンカーでコック見習になる

 

        18歳の誕生日*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

        40日間の有給休暇をとって

        自宅に戻った片桐はライフル銃を

        自分名義に変更する φ(.. )

 

        鉄砲店で水平2連式散弾銃

        12番と銃ケースを購入
        横浜や八王子で射撃場に出かけた

 

        有給期限の過ぎた後退職
        凶行に向かって走って行った

 

        事件の起こった日
        警察に通報したのは片桐自信
        警官が持つ拳銃を手に入れる為だっだ

 

じゃ 1965年7月29日に戻って…

田所康雄巡査が少年を訊問

しようと近づくと銃口は巡査に

向けられ躊躇なく銃弾が放たれた

 

田所康雄巡査被弾 片桐は倒れた

田所康雄巡査から拳銃と制服を奪った

 

程なく谷山幸広 菅原紀雄両巡査の

パトカーが到着現場に駆け付ける

片桐は谷山巡査に銃口を向け発砲
続けて菅原巡査も躊躇なく撃った

 

片桐は逃亡したが被弾を免れた

谷山巡査が県警に連絡
被弾した2人を救急搬送した

 

田所康雄巡査 永眠享年21歳
谷山巡査は腹部に被弾したが
一命を取り留めた

 

片桐は現場近くの住民(当時33歳)に
「警察の者だ。近くで撃ち合いがあり

犯人を追っているので車を貸して

欲しい」と要請し住民の運転する乗用

車の後部座席に乗り込み逃走を図る

 

だけど不審に思った住民の家族が

警察に通報した 車を運転する住民は

町田市に向かう途中「交番に寄って

みてはどうですか」と問いかける
曖昧な返事を返す片桐を不審に思った

住民は原町田交番前交差点で停車

連絡を受けていた町田署の警官が駆けつける
 

片桐は偶然近くに停車した別の車に

乗り込み運転手を脅して逃走 この

運転手を連れたまま川崎市の稲田堤で

別の乗用車を脅して更に逃走を続ける
人質は3人になった
(-。-;)

男性2人 女性1人 ヾ(- -;) 

 

33か所の検問が設置され

動員されたのは機動隊パトカー6台
警ら隊パトカー7台交通化パトカー16台
交通機動隊白バイ85台 
( ̄_ ̄ i)
 

片桐は多摩川を渡って調布市へ
そして14:00頃小金井公園着く

新しい車を奪い3人の人質を

連れたまま武蔵のから三鷹へ


代々木公園に差し掛かった時
片桐は人質のうち女性を解放
人質は男性2人になった

 

18時過ぎに東京都渋谷区北谷町

現在の神南一丁目だねd( ̄  ̄)
"ロイヤル銃砲火薬店"に到着

店内にいた店員3人と店員の妹1人に

銃を突きつけ弾薬を強奪
店内を撃ちまくった
銃声に付近の住民が通報

 


警察隊が駆けつけ店を包囲
装甲車も出動した
JR(当時は国鉄)は現場に近い
ことから流れ弾で乗客が負傷する

 

危険性を考えて山手線を全面的に停止
マスコミも駆けつけ野次馬を交えて
3000人近い人々が現場を取り囲んだ

囲まれた片桐は警官隊も通行人も
無差別にライフルを乱射
100発以上の弾丸を放った
16人が負傷 
★─☆。o゚。★─☆。o゚。
 

警官隊は増えすぎた野次馬を制止できず
野次馬の住民が無防備に現場に近づき
複数被弾した

 

片桐は店内と店頭を往復し銃弾を

補充して撃ち続ける

人質を取られて銃弾を使えない
警官隊と機動隊は催涙弾で応戦

 

19時18分
機動隊が放った催涙弾で店内が

白煙に包まれ片桐が人質を盾に

裏口から飛び出した 隙を見て

人質だった16歳の男性店員が

ライフル銃の銃身で反撃
片桐の頭部を殴りつけた

 

続けて原宿警察署緒方保範刑事が
片桐に体当たり確保を試みるが

片桐は緒方刑事を至近距離から

銃撃 緒方刑事被弾★─☆。o゚。

 

片桐は再び逃走を試みる

 

2発の銃弾を受けながら逃走を

阻止しようと拳銃を構える緒方刑事が

マスコミのカメラに捉えられた

片桐は5人の警察官によって

取り押さえられ逮捕連行された


緒方刑事は重傷を負ったが

一命を取り留めた全治1か月

 

取調べ室で片桐は取調官に
"色んな銃を撃ちまくることができて

たまっていたものを全部吐き出せ

スカッとした気分だ どうせ刑務所に

入るんだろうから代わりにベトナムに

行きたい ベトナム戦争で好きなガンを

思いっきり撃つことができるのなら

死んでもいい"★─☆。o゚。★─☆。o゚。

 

恒久平和を誓った戦後日本けれど

泥沼化するベトナム戦争は人々の
心に大きな影を落としていた

 

        野次馬の中に後にこの事件に

        影響されて19歳で連続射殺事件

        を起こし死刑台にのぼった
        永山則夫がいた


        この時は16歳 フルーツパー

        ラーの店員だった

 

        もう一人現場にいたのは
        作家を経て環境庁長官 運輸

        大臣等を務めた後東京都知事

        となった石原慎太郎 さん★─☆。o゚。

 

        当時32歳の石原さんは銃撃戦と

        聞いて野次馬に参加
 

        最高裁では判決を傍聴

        作家として 死刑確定後に法務

        大臣を二度訪問 少年の死刑を

        取り消して減刑恩赦を出すように

        嘆願している
 

        小説を書くために少年に会い

        たいと面接を何度も申請するが

        許可されなかった ただ警察の

        調書は参照できたらしく
        石原新太郎さんがこの事件を

        元に執筆した『嫌悪の狙撃者』は

        どの文献よりも事件を正確に

        記述していると云われている

 

        明確な目的もなく何人もを射殺し
        逮捕後自分が犯した事件の動機を
        説明することもできなかった片桐

 

        石原慎太郎さんはなんの意識もなく

        銃で人を撃ちたかったそんな片桐を        
        大衆社会への嫌悪を代行した純粋

        犯罪者と位置付け聖性が見出せる

        と評価 強い共感を示していた

 

        当然だけど減刑も面会も実現せず
        片桐の死刑は執行された

 

        未成年は名前を公表しないのが

        報道のルールだが余りの残虐性に

        マスコミは氏名を公表 した

 

1967年4月13日

一審の横浜地裁  無期懲役


1968年 

東京高裁(控訴審) 矯正の余地なしとして"死刑"


1969年10月2日

最高裁  二審判決を支持 上告棄却

 

片桐の死刑が確定
"人格のひずみによる残虐さは強制出来ない"とされた

 

死刑執行の直前片桐の残した言葉がある

"僕は親不孝の許しを乞い被害者の冥福を

祈りながら静かに死んでいきます
ぼくのような人間が2人と出ないようこの

最後のつらさ苦しさの心境だけは若者

たちに伝えてください 自分との闘いに

負けた人間の最後のあわれな姿が

自分をして自分で自分の首を絞めるよう

なものでこんな人間にだけはなるなと

教えてやってください 罪を犯さない

人間を育てて下さい これが僕の最後

の頼みです"
遺書の最後にはこう綴っている
"天気晴朗なれど心波高し"

 

1972年7月21日

死刑執行 享年25歳 

遺体は遺族の元には戻されず医学の

為に献体されたと資料に書かれている

 

        犠牲者の魂が今は
        安らかにある事を願って
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

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