恐れからの自由(4)自己との対話 | 風天たあこのブログ
自己観察によって、自分の思考パターンを冷静に観る事が出来るようになったら、次に自己との対話を始めてみませんか?
自分の心の奥底にある本音を導きだすのは、そんなに簡単な事ではないかもしれません。
そこに見出せるのは、本質的な「私を一人にしないで・・・」「私を認めて・・・」「私を愛して・・・」という自分への欠落感から起きる心の飢餓だったり、自分を守るために相手をコントロールしようとする傲慢性であったりするかもしれません。

私が初めて「自己との対話」という言葉を意識したのは、8年前になるでしょうか。その当時15歳だった娘がことごとく私に反発していたのです。いじめられっこだった娘が自分を守るためだったのでしょうか、その当時流行っていたカラーコンタクトをしたり、化粧をして学校に行ったり、派手な服装をしたりしていました。

母親として娘の幸せを思うがため、娘が何故そのような行動を取るのか娘の心の奥に潜む動機を知ろうともしないで、娘を叱ってしまいます。聞く耳など持ってくれない娘と私の関係は悪化する一方だったのです。

「お母さんは子供の頃、親の言うことを素直に受け入れていたのですか?親が反対することは一切してこなかったのですか?自分のやりたいことを我慢し続けていましたか?理恵さんと同じ年頃の自分を思い出して見ませんか?」当時24歳の独身男性から指摘されたときには「子供を生んだことも育てたこともないあなたから、そんなことを言われる必要はないわよ!」との反発心がありましたが、「自己との対話をしてみませんか?」との言葉に理由は解かりませんが、新鮮な響きを受け取ったのです。

「自己との対話」って何?どうすること?

私が娘を叱るのは、娘に幸せになって欲しいという想いから・・・だ・よ・ね・・・
感情が出てくる毎に「この感情はどこから出てくるの?」という問いかけをしてはいましたが、最初のうちは五感で受け止めている外からの情報に対する自分の価値観の周囲をぐるぐる回っていることしか出来ませんでした。自己の内にある不動の善悪意識が外からの情報に対し、反射的に判断し、行動しているだけでした。

いつ頃からか覚えていませんが、五感で受け止めたことを自分の価値基準で判断し続けていては状況は何一つ変わらないし、その場を何とかやり過ごしても姿形を変え、何度でも同じような状況は押し寄せてくることに気づくようになりました。同じジャンルの葛藤が無限に続いていくことに気づかされるようになりました。

そしてやっと分かってきたのです。
自分がしっかりと握りこんでいる善悪の価値観が絶対に正しいとの想いから、それに沿わない意見や行動を一切認めようとしていないだけだし、聞く耳も持とうとしていない自分の姿がそこに存在しているということに!
娘の私に対する言動は、そっくりそのままに私の言動であり、私は娘を通して自分自身を否定している構図がそこに現れてくるようでした。

「自分の考えが絶対に正しい!だから皆私の言うことに従えば、幸せになれる!私の言うとおりにしなさい!」表面に出す言葉は少し違っていても、あるいはそれを意識しているかどうかは別にしても、周囲を自分の価値観の下にコントロールしょうとしている自分の傲慢さが見えてくるようになりました。 

自己の価値観を絶対視する言動は、娘のため、あるいはあなたのためと言いながら、相手の考えを聞いてみようとする謙虚さはなく、相手を自分と対等な命として認める尊敬の心もなく、相手を見くびり隷属させようとする圧制者と変わらない自分の姿が二重写しに観えてくるようになりました。

大は国家間の諍いから、小は家族間(個人的人間関係)の諍いまで、その構図が観えてきます。世界平和を望みながら、未だに戦争がなくならないのは、ここに原因があるのかもしれないと思うようになりました。

国や社会を憂うなら、その相似象であり縮図である自分の家族や恋人、友人、同僚・・・との相互理解を目指し、その関係性の中に平和、平安が満ちてくるよう自分を変えていくことが先決なのではないでしょうか?
その延長線上に地域社会や国があるように感じています。

自分以外の人と向き合う時、相手を信頼し、尊敬し、謙虚に相手が何をどのように考えているのかをよく聴き、自分の意見も高圧的にならないよう注意しながら、冷静な話し合いをすることの大切さを徐々に学んでいきました。

そうは言っても、気づいたからといって俄かには習性は簡単には変わりにくいものです。何度も反省しながら、徐々に、本当に徐々にしか自分の中の圧制者を手放していけないようです。それでもその意識を持って行動を続けていると、瞳のもやがはれてきて、視界が清らかに変化してきます。心が穏やかさをとり戻してきます。まだ今でも修行中っていうところでしょうか?

娘と向き合い、お互いに感情的にならないよう、お互いの意見を出し合い、譲歩できるところは譲歩し、お互いに納得できる方向を選んでいくようしていると、次第にお互いが相手を認め、赦しあい、調和がとれていくようです。

私の具体的な方法は、大きく感情が動いた時が「自己との対話」に入れるチャンスと捉え、感情を少し脇に置き、その感情が何故発生してくるのかを吟味してみる時間を作るようにすることでした。いつもは外からの情報を五感で捉え、捉えた情報を反射的に(過去の体験から、自我はソレはこういうことだというストーリーを一瞬の内に創りあげています。)判断し、快、不快、あるいは中立の感情を発振しているようですから、そこに冷静な観察者の視線を入れ込むようにしたのです。

例えば怒りが出てきた時、「何故私は、この情報に怒りを感じるのだろう・・・」と情報を見ないで、自分の心の隠されている本当の動機を見つけ出すようにしたのです。そうした思索を繰り返していると、次第に観えてくるものがあります。

「自分の思惑と異なる情報に接した時に、私は反射的に怒りを発振しているようだ。」→
「それは、自分の思惑が絶対に正しいと決め込んでいたり、状況がどうであろうと、あるいは相手の考えがどうであろうと、自分の欲望を押し通したいと強く望んでいるからのようだ。相手を自分に従わせたいという自我・我欲がここに存在している。」→「私の中に圧制者が居る」→「感情の責任は、相手や状況にはなく、自分の欲心にこそある。」・・・・・

怒りを発振することが心地よいならそれでもいいのですが、私は怒りの感情が出てくると肉体的にも辛くなります(血が逆流し、筋肉や内臓器官が硬直、心臓の動機が激しくなり呼吸が乱れる・・・)ので、自分の中の圧制者と別れることにしたのです。どんな情報が押し寄せてきても、情報それ自体は中立であり、感情の元は自我・我欲であることがわかってくると次第に情報を静かに受容して流すことができるようになってきます。

また五感に振り回され続けていると、そのマイナスエネルギーは体内五臓六腑を駆け巡り、細胞を萎縮させ、発病していくようです。正に「病は気から」の流れがくっきりと観えてくるのです。

恐れからの自由は、こうした日常の中で発生してくる自分の感情を冷静に観察することで、身につけていくことができるようになります。
「観察者の視線を創る」ことから「自己との対話」を始めてみませんか?
もし自分ひとりではなかなかそれが出来ないなら、いつでもあなたのサポートをさせていただきます。

次回は「恐れからの自由(5)自分を100%愛しましょう」を予定しています。

皆様の心が、常に平安でありますように・・・