【支那地区通信】支那地区は歴史を直視せよ | わかり松。の でつノート

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リアル分析で反日サマナ滅札!!!!

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日本人が説明した日中戦争の経緯に「何も言えなくなった」、中国ネットの反応は?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150423-00000015-rcdc-cn


news日本人が説明した日中戦争の経緯に「何も言えなくなった」、中国ネットの反応は?



2015年4月21日、中国のインターネット掲示板に、「これを見て、私は日本に何も言えなくなった」と題するスレッドが立ち、ネットユーザーの注目を集めている。

スレッドには、ある日本人が日中戦争の経緯について説明した文章が掲載されている。その内容は、「日本は中国大陸を自分のものにしようとしていたわけではなく、隣国として当時、中国で頻発していた内戦を止め、欧米の侵略や搾取に遭わない自立した民主的国家をつくる手助けをするためだった。また、西欧諸国は当時、アジアの国々を次々と植民地化しており、混乱した中国に西欧諸国やソ連が侵入すれば、隣国である日本にも危険が及ぶ。日本は中国を近代化された強力な国家にして、いずれは日本と共に西欧の植民地主義やソ連の侵略に対抗してくれることを望んでいた」というものだ。

これに対し、中国のネットユーザーからはさまざまなコメントが寄せられている。

「救世主気取りか。本当に畜生にも劣るやつらめ」
「頭が正常になってから話そうか」
「どの国にも洗脳がうまいやつっているよね」


「日本人がこんなに愚かだと知って安心した。この程度なら大したことはない」
「日本がどう考えていようと、中国に被害をもたらしたことは事実」
「結局は自分たちの都合だろう。われわれが歓迎していないのに入ってくるのは侵略だ」

「日本の庶民にこういう見方が出てくるのはなぜなのか。日本政府が侵略を美化しているからじゃないのか?日本人の多くが自分たちの教科書を信じているのに、中国人がますます自国の教科書を信用しなくなるのはなぜなのか」

「ここに書かれていることは事実」
「日本の庶民も軍国主義の被害者だった」(翻訳・編集/北田)



事実ですが何か?

おまえら支那地区は支那地区共産党の


歴史小説しか知らんだろうが、

支那地区は当時すでに国家として真っ当な


体裁を保っていなかったわけでつね。



日中戦争-Wikipedia

中国革命

1911年、清政府による鉄道国有化政策に地方省が反対し各地で暴動が発生、10月に孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧し、黎元洪を都督として中華民国軍政府が成立を宣言する。清は革命軍の制圧に失敗し、中国15省が次々と独立を宣言した。1911年12月29日、上海で孫文が中華民国大総統に選出され、1912年2月12日溥儀が退位し、清国は滅亡した。

中清派遣隊駐屯
日本の西園寺内閣は清と革命軍の妥協政策をイギリスに提案したが、イギリスは袁世凱と提携し、共和制中華民国を成立させた

中国第二革命
1912年8月25日 には孫文を代表とし、総理を宋教仁とする国民党が結成、翌1913年3月の国会議員選挙では国民党が870議席の内401議席を獲得した。一方、袁世凱はアメリカの政治学者フランク・グッドナウ(英語版)による意見を取り入れ立憲君主制を目指す権力拡大を計り、同3月に宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめたため、孫文らは袁打倒の第二革命を開始。8月5日には中国軍が、支那駐屯軍の川崎大尉を連行する兗州事件が発生。8月8日に孫文は、日本に亡命。8月11日には中国軍が、中支派遣隊西村彦馬少尉を拉致陵辱された漢口事件が発生。9月1日には中国北軍と南軍が南京で戦闘中、北軍の張勲が在留日本人3人を殺害、日本人商店から略奪をする(南京事件)。同年10月10日、袁世凱が、大総統に就任する。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。



もうこの段階でウンザリなんだが、この時点で

国家のテイをなしておらず、日本人殺害事件に


対しても外交上最低限の対応すらしていない。

しかもエ下劣の傀儡・袁世凱が簒奪。


そしてこの後、第一次世界大戦が起こり、

以下に続く(長いので適当に流し読みでおk)。



日中戦争-Wikipedia

中国内戦

この時代、中国全土は分裂し軍閥割拠時代となった[24]。 1919年の五・四運動以降、中国では共産主義思想への共感が拡大していく[37]。1920年にはコミンテルンのボイチンスキーが北京に派遣され[38]、1921年には中国共産党が結成される。

1920年7月14日の安直戦争によって段祺瑞の政権は崩壊した。天津攻撃をおそれた日本は鉄道沿線各地に軍兵を配置した[25]。10月2日には馬賊団が、琿春の日本領事館を全焼させ、日本人13人を殺害、数人を拉致する。 1920年11月、張作霖の使者が日本を訪問し、支援を求める。

1922年4月 、孫文が北伐を開始する。4月28日 には第一次奉直戦争が起こる。

コミンテルンの工作
1923年にはA.A.ヨッフェとミハイル・ボロディンが孫文と接触し、孫文はソ連に武器援助を要求した。

1924年7月1日、蒋介石と汪兆銘等による広東国民政府が成立。ソ連はボロディンら工作員を派遣し広東などで反英運動を展開し、1925年7月には蒋介石は東シベリア赤軍のブルーシェル最高司令官にイギリスとの武力戦争のためにロシア人顧問が必要であると伝えた。

1925年5月30日、上海で数万の反日デモが発生、その後全市規模のストライキがコミンテルンと中国共産党の陳独秀指揮のもとで行われた。デモに対して上海共同租界当局は鎮圧にあたって発砲、13人が死亡する五・三〇事件が発生、以後、大衆運動の矛先は上海共同租界の代表であるイギリスに向けられ、香港などでも反英運動が展開した。

蒋介石の北伐と反共政策
翌1926年7月、蒋介石は孫文を継承して、軍閥・北京政府撲滅を目指し北伐を開始する。

翌1927年3月24日、南京に入城した蒋介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った(南京事件)。米英軍は艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、自重し、イギリスと蒋介石の説得工作をおこなった。蒋介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織、共産主義者とみなされた人々が処刑された(上海クーデター)。

北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府と汪兆銘等の武漢国民政府に分裂する。

アルコス事件
蒋介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため、山東省へ軍を派遣する山東出兵を決定。日本と関東州の大連・天津から南下した日本軍は治安維持活動を開始。しかし北伐軍は張作霖に敗北し山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退。

同1927年7月、漢口政府も蒋介石にならって共産党員を追放した。8月19日には武漢政府も容共政策放棄を声明し、南京国民政府に合流、蒋介石の権力は強固なものとなった。 9月 、田中義一首相と蒋介石が会談し北伐・対共産主義戦に対する支援と日本の満州国での権益を認める密約を結ぶ。蒋介石は上海での記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った。

10月には中国共産党が江西省に革命根拠地を創設。1927年12月11日には中国共産党が武装蜂起で広州を制圧、ソビエト政権を樹立するが、その後中国地方軍に鎮圧され、共産党員と7人のロシア人は処刑された(広州コミューン)[42]。蒋介石はソ連に国交断絶を宣言した[46]。
北伐後(1928年以後)の中華民国の情勢。藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配域。

山東出兵・済南事変
省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。しかし、北伐軍兵士が日本人の家を略奪したため、日本軍と銃撃戦が起こった。さらに蒋介石に「日本軍が中国人を虐殺している」との出自不明の情報が入り、5月3日、激怒した蒋介石が日本人12名を殺害させる済南事件が発生した。

5月8日、日本軍は第三次山東出兵を行う。市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日には済南全域を占領した(済南事変)。済南事変によって中国は反英運動から反日運動へと矛先を変え、同時に英米も日本に批判的になった。現地軍が事件を拡大させ、「暴支膺懲」が日本の世論で叫ばれるというパターンがここで生まれたため、満州事変の予行であったともされる。

また同1928年内には、日本守備隊10数名が中国軍によって不法拘留される事件 などが数件起こった(日本兵不法拘留事件)。1928年6月4日には、蒋介石に破れ北京から満洲に帰国途中の北方軍閥の張作霖が爆殺される張作霖爆殺事件が発生。6月9日 には国民党軍の北京入城によって北伐完了が宣布、10月8日 には中華民国南京国民政府が樹立。同年12月29日には張作霖の子の張学良が国民政府に帰順し、一応の全国統一をみた。

1929年6月、日本は国民政府を正式に承認する[46]。このときの協定文書で蒋介石は「支那」でなく「中華民国」呼称にするよう要求、日本も承諾した[46]。

中華民国政府がソビエト連邦と交戦に力を注いでいるうちに中国共産党は中国各地で盛んに活動を行った。中国兵による日本兵射殺事件も発生している。

1930年代の国共内戦

南京国民政府でも抗日世論が高まっていたが、蒋は日本との国力の差を考慮した上で国内統一による国力増強を最優先目標とし、また反共主義の立場から、抗日政策より中国共産党との戦いの方を優先した。 1930年(昭和5年)2月 - 中国共産軍が瑞金に江西省ソビエトを樹立、5月、反蒋介石連合運動との内戦中原戦争が起こり、双方100万の軍勢で、30万の死傷者が出た。

1930年7月27日、中原戦争の隙をねらって中国共産党軍が1万の兵力で長沙を制圧、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した[51]。8月5日、中国中央軍が、紅軍から長沙を奪回、8月15日には閻馮軍から済南を奪回する。9月18日、張学良が蒋介石支持の態度表明し、東北軍の関内進駐によって蒋介石軍が勝利し、蒋介石の勢力は強化された[50]。

蒋介石は共産党を「共匪」と呼び、1930年12月の第一次囲剿(いそう)作戦から、5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開した[51]。1931年4月から5月まで第二次囲剿作戦、7月から9月まで第三次囲剿作戦を行うが、いずれも失敗した[51]。満州事変勃発のために、国民党軍が共産党軍に寝返った寧都蜂起も発生した。

5月 - 汪兆銘らが中華民国広東国民政府を樹立。
6月 - 中村大尉事件。
1930年7月2日 - 万宝山事件(当時日本国民だった朝鮮人と中国人の間で起きた事件)。

毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下、農村を中心として支配領域を広げていき1931年11月7日には江西省に〔D〕「中華ソビエト共和国臨時政府」(瑞金政府)を樹立するまでに勢力を拡大した。



とまあ離合集散に明け暮れ、歴史認識も

へったくれもない。



統一政府ができたのが1928年。

しかし2年後の1930年には


「双方100万の軍勢で、30万の死傷者」

の内戦勃発(縛w


支那地区共産党がポツポツと独立宣言しては

内戦が起きるという繰り返し。



日本政府はこの間支那地区に対して国家として

責任ある対応をずっと求めてたわけでつね。


しかしそれはなされなかった。

この後満州事変が起きるわけだが、


更にその後(黒いところがポイント)。。。



日中戦争-Wikipedia

華北工作
1935年(昭和10年)1月、蒋介石は『外交評論』に「日本人は我々を敵とすることはできず、また中国人も日本人と手を携えなければならない」として、日本に領土侵略でなく経済提携などを図るべきと論じ、対日関係打開を探った[56]。1月22日に広田外相が「不侵略」を表明したことに対して蒋介石は1月29日以降、日本政府要人と会談し、王寵恵国際司法裁判所判事も訪日し、岡田首相らと会談し、双方とも平和的処理を了承した[56]。1935年3月1日 - 中国、党宣伝部長が「排日行動を停止すべし」と表明。

対中政策方針の転換
1937年(昭和12年)2月2日、第二次西安事変。2月2日、日本で広田内閣から、林内閣へ。佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や中国への軍事的威嚇方針をやめ、平和交渉に移るよう外交方針を変更した[71]。陸軍でも参謀本部戦争指導課長の石原莞爾が華北工作など従来の帝国主義的な侵冦政策の放棄を唱えた[71]。

盧溝橋事件
1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の演習中に実弾が二度発射され、日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発する[74]。

7月11日、日中の現地軍どうしで停戦協定が締結され(松井-秦徳純協定)、中国側は遺憾の意思を表明し、責任者を処分すること、盧溝橋付近には中国軍にかわって保安隊が駐留すること、事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など抗日団体が指導したとみられるため今後取り締るという内容の停戦協定が締結された。

7月13日に北平(北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。

国民政府の対日武力行使決定
中国共産党は7月15日に国共合作による全面抗戦を呼びかける。蒋介石も7月17日、盧山談話会において、中国は弱国であり戦争を求めてはならないが、やむをえない場合は徹底抗戦すると表明する。中国政府は7月19日、国民党の第29軍代表張自忠らが盧溝橋事件の停戦協定の細目実施を申し出、共産党の策動を徹底的に弾圧すること、排日職員を取り締ること、排日団体は撤去すること、排日運動、排日教育を取り締ることを日本に誓約する一方で、盧溝橋事件に関する地域レベルでの決着は認めないと日本側に通告した。7月20日には中国軍第37師部隊は再び盧溝橋付近で日本軍に攻撃した。7月21日、蒋介石は南京戦争会議で日本に対して武力行使を行うという方針を採択した。7月23日、南京副幕僚長孫浜将軍が北京と保定の軍に対日戦闘を勧告した。

他方、7月22日から中国当局は抗日雑誌等を禁止、藍衣社などを弾圧したと日本に報告された。

郎坊事件
中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した。 1937年7月25日、郎坊駅で電線を修理した日本軍が休憩していると中国軍が襲撃した(郎坊事件)。日本軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌7月26日、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し、同地を日本軍が占領。日本軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本軍は日本にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった。



はい、全部支那地区のせい。

日本側は対支那融和政策を決定し、盧溝橋事件


自体も支那地区側に非があるということで

停戦合意で解決したにも拘らず、支那地区は


日本に対して攻撃を行ったわけでつね。

その後はご存知日支戦争。



当時日本軍が支那地区に駐屯していたのは

外交上の合意に基づいていたもの。


それに対して攻撃したわけだから、責任は

全部支那地区にあるわけで、


なんの言い訳も許されないでつね。


日本に対して散々迷惑をかけたにもかかわらず


何ら国家としてしかるべき対応をしなかった

ばかりか戦争を仕掛けた支那地区。


引用記事に書いてある認識なんか、

まだ優しい方でつね。


本来は戦争責任は支那地区にあるわけでつね。


まあなぜ支那地区がそういう風に日本に対して


執拗に工作・挑発・攻撃したかについては

こちらをご覧下ちい。


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