天下の変態メシア・出口王仁三郎の幼稚なエログロ奇行 | 愛とエロスのLEGEND SOLDIER【覚醒戦隊GODZIGENGER】幸福の超科学の言霊実現党

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愚鈍な「悟りバカ日誌」で一般常識や固定観念を破壊してエロミナティの世界へ誘います♪


本日、2回目の更新です。



ピーターパン・シンドロームについて書きましたが、

『王仁三郎の霊界物語は科学でこう解ける』

の中で須藤アキオ氏は次のように述べています。


『ユングの考えでは、本来的に自己実現したときには、
純朴で無意識的な一種の子供らしさを獲得する。
出口王仁三郎などは、まさにそのような人物だと思える。


講演中でも興がのれば娘婿と相撲をとり、
紐に脱脂綿を当てた洗濯バサミを付けて天井から下げ、
これを睾丸に挟んでウチワで扇いでみたり、
誰に会う時も態度を変えず、

社会的に偉い人の前でも一物を隠さなかった。

不敬罪という絶望的な罪に問われている時も、
審理中に漫談まがいに答弁をして、

「あれは当意即妙病だ」と言わしめ、
監房では「ゴミ箱の中に入れても光るものは光る」

と評されて看守に愛され、尊敬されてしまい、

これを恐れて看守はすぐに交替させられたほどだ。

また、晩年まで寝るときには、

子供が絵本を読んで聞かされて寝入るように、
「霊界物語」を拝読させ、幼児言葉で床についたのである。
そして子供になって寝れば悪魔も付け入る隙がないのだと、
800万という賛同者を得た男が平然と言ってのける』




出口王仁三郎の偉大な功績や影響力は、

一言で語れるものではありませんが、

国家を転覆させる危険人物として政府に狙われ、

2000発のダイナマイトで徹底的に教団を破壊され、

歴史に名を残すほど破天荒で豪傑な人物でした。



しかも、自らの教団を政府に弾圧させたのは、

他ならぬ王仁三郎自身の意図であり、

「宗教破壊の型示し」だったということですが、

上記のように変人の極みでもありました。



以下、愛善苑 月光分苑 より抜粋↓



出口王仁三郎とモーツアルト----共通する幼児性-----


「幼子のように神の国を受け入れるものでなければ、

決してそこにはいることはできない」とは、

聖書の中のイエズス・キリストの言葉であります。


そして王仁三郎も同じように、

「生まれ赤子の心に立ち返れ…」

と述べていたことはよく知られております。


この言葉は、我々も幼子のように

清い無垢な心とならねば救いに与かることはできない、

という意味であると一般的には理解されており、

決して幼子のように幼稚な行動をとれ、

ということではありません。


しかしながら、幼子の言動が幼稚なのは、

無論知性がまだ未発達であるからなのですが、

いまだ人為的な知性に邪魔されておらず、

その心が無垢なままであるがゆえの

結果であるとも考えられるのではないでしょうか。


そうすると、心を清め、神的な知性を獲得して

小賢しい人的な知性を超越した人の中には、

どこかしら幼児的なところが認められるものである

とも言えるのではないでしょうか?


王仁三郎には、そうした幼児のような、

悪く言えば馬鹿としか思えないような言動が数多くみられ、

しばしば周囲をあきれさせていたことは有名であります。


刑務所内で自分の珍宝を玩具にして遊んだり、

裸のまま平気で人前に出たり、

ある満月の夜の奇行の話など、

とにかく下ネタが大好きで、

彼の生涯はそういったエピソードに満ちています。


(もちろん現実の生活は質実としており、

こと神様に関しては非常に厳格であったわけですが)


そういえば、古事記の中にも、

スサノオノ命が天照大神の神殿に糞をひり散らして

穢してしまったという話がありましたが、

霊界物語の中でもそれが最高聖典であるにも拘わらず、

「糞」や「屁」、「睾丸(きんたま)」などの

実に多くの下品な単語や表現、

くだらない駄洒落などが使用されているのであります。


そもそも、最初私が王仁三郎のことを知って

関係書籍を色々と読んでいたときも、

それらの書物から伝わってくる彼の霊性の高さ、

教えの素晴らしさとは対照的に、

その言動のしつこいほどの下品さに閉口してしまい、

このような立派な教えをこんなにも品のない言葉で

説いてしまったことが情けなく思え、

とてもこういう人物にはついてはいけない、

と正直思ったものでありました。


おそらく古今東西の宗教家の中で、

王仁三郎ほど下品な

(やんちゃと言った方がいいかもしれませんが)

人物はいないと思われるのであります。


ただし、彼はその気になれば非常に格調の高い、

洗練された文章を書く事もできたわけであり、

わざわざ意図的に(あるいは単におもしろがって)

汚い言葉を多用していたとも考えられるのであります。


・・・・・・(中略)・・・・・・


こういった神的な世界と接触を持つ一方で、

同時に我々の世界とも深く関り、

双方の橋渡しとなれる人物の中には、

その心が清らかで無垢であるがゆえに、

周囲の者にはとても理解しがたい、

一見すると下品としか思えないような言動を、

何のためらいもなしに行ってしまう者もいるのです。


それこそが彼らの精神性の高さを

証明しているともいえるのではないでしょうか。


王仁三郎によれば、『霊界物語』は、

子供から大人まですべての人がわかるよう、

わざとおもしろおかしく卑近な言葉を用いて

説かれてあるのだということですが、

このことは、たとえ読み手が大人であっても、

あえてこのような子供っぽい文章を読ませようと

しているのだというふうにも解釈できないでしょうか?


つまり、これは私の個人的な考えですが、

霊界物語には、我々をいわば、”幼子化”

する作用もあるのではないか、と思えるのであります。


主神の言霊であり、”霊魂の餌”

でもある霊界物語を受け入れることで、

我々の偏見に満ち、硬直し、

世俗の欲望にまみれた状態の自我は、

高貴なる俗語によって説かれた物語の、

陽気で単純な馬鹿らしさ、おもしろさ、

ストーリーの底に一貫して流れる神の

慈愛の深さなどにショックを受け、

物語を読めば読むほど自然に、

徐々に解体され浄化されていき(立替え)、

幼子のように無垢な状態となってゆくのであります。


そして同じく俗語によって語られる膨大な量の知識、

霊的な教え、神によって万物が救済されていく

ストーリーなどを意識の中に大量に注ぎ込まれて、

それをもとに、自我は解体されつつも同時進行的に、

物語の刺激によって目覚めさせられた直霊一致・

調和したかたちに再構成されてゆくのではないかと

思えるのです(立直し)。


決して知性や内的な生命力等が損なわれることもなく、

反ってそれらは増大し、かくして新しくされた自我は、

より能動的、躍動的なものとなって正しく成長・発展して、

次第に神的な次元へと拡大されてゆく

(自我の宇宙的拡大)、のではないでしょうか。


そして、我々の日常生活の次元においては、

基本宣伝歌にある、”直日に見直し聞き直し、

身の過ちを宣り直す”ことを、知的にではなく直感的に、

自然に実行できるようにしてくれるのではないでしょうか。


そう考えると、

説かれている教えの崇高さとは矛盾するように思える、

しつこいほど出てくる品のない言葉や馬鹿話、

うんざりするほど繰り返される似たような表現や

単純なストーリーについても、

我々の”ミタマ”を立替え・立直すために、

なぜそうでなければならなかったか、

ちゃんと意味のあることであったと理解できるのであります。


半世紀前のドイツの神秘家、ルドルフ・シュタイナーは、

7歳ぐらいまでの幼児は、

神的な世界とのつながりを有していると主張し、

早期に知的教育を行なって、そのつながりを

破壊してしまうことの危険性について述べている。


王仁三郎は、裸電球を背にして壁に向かって立ち、

尻をまくって自分の珍宝やきんたまの影を壁に映し、

揺らして遊び、それがおもしろくておもしろくて、

キャアキャア言って喜んでいたという。


ある信者が満月の夜、

王仁三郎の奇妙な行動を目撃した。


外で四つんばいとなり、

地面に両手をぺたぺたと付きながら尻をまくって、

さかんに腰を空に向かって突き上げている。


何をしているのか尋ねると、王仁三郎は、

「尻の穴はいつも汚いものばかり見てかわいそうや。

たまにはきれいなお月様でも見せてやろうと思うてなあ」

と答えたのであった。


このような、スサノオの持つ幼児性、

トリック・スターとしての性格については、

多くの研究者によって指摘されており、実に興味深い。


キリストは誰とでも分け隔てなく付き合い、

むしろ社会的弱者、罪人とされていた連中の中へ自ら入り、

食事を共にしたため、パリサイ人から、

「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ。」

と罵られ、またマホメットは、多くの妻を娶ったため、

「結婚ばかりしている色きちがい」と非難されたという。


キリストについて、

彼が笑ったという記述は聖書にはない。


しかし、王仁三郎によると、

彼は”ユダヤのおもしろ男”であったということであり、

また、アメリカの透視能力者、エドガー・ケイシーは、

「イエスはユーモアのセンスをも持っていた」と語っている。


またドイツの哲学者M・シェーラーは

「動物には羞恥心がなく、また

”羞恥する神”を思い浮かべることは

まったくの背理であろう」と述べ、

羞恥には自然的根拠などないことを指摘している。





僕は王仁三郎ほど変態ではありませんが、

似たり寄ったりという感じがします(笑)


王仁三郎は世界征服の雛型神劇を行ないましたが、

その一顕現が僕の世界征服計画かもしれません。


ZEROの世界征服



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