十条潔(第4代創価学会会長) | くにゆきのブログ

くにゆきのブログ

今、自分が感動したこと、また知っていただきたいことを、主に記していこうと思います。

   (『人間革命』第3巻より編集)

     64

   〈前三後一〉 10

 

 当時の男子青年部の各部隊は、それぞれ特色を持っていた。

 

 「青年訓」の強烈な鏡は、それぞれの部隊の長所、短所を、くまなく映し出した。

 

 果たして第二部隊は、十月二十五日付けで部隊長が変わり、十条潔(池田会長のあとに4代目の会長のなった方、なぜか短命で終わる)が新たな部隊長の任命を受けた。

 

 周囲の先輩たちは、十条の前任者についてこう語る。

 

 「彼は、やる時は猛然とやるが、気まぐれで、わがままであった。また、真の知性にかけていた。彼は、自己との戦いに勝てなかった。

 

 そして、異性関係が、彼の信心を全く狂わせてしまった」

 

 十条潔は、第四部隊所属の一班長であった。その彼が、第二部隊の隊長になったことは、奇異の感をいだかせた。

 

 それに、十条自身が、青年部では、まだあまり知られていなかった。それもそのはずで、創価学会に入会したのは、わずか四か月前のことだったのである。

 

 思いもかけぬ抜擢であり、人材の登用であった。

 

 彼の家は、もともと日蓮正宗(この当時は、創価学会も日蓮正宗の中の一団体であった。日蓮正宗創価学会の名称であった)の檀家であった。

 

 彼は、海軍兵学校へ進み、戦時中に卒業して、戦争末期には、若き愛国の海軍士官であった。

 

 軍人として、生死の問題に直面したころ、彼は、初めて心から真剣な題目を唱えるようになった。

 

 ところが、終戦と同時に、彼の人生は、ぷっつりと断絶したのである。

 

 人生行路は、百八十度、転換しなければならなかった。

 

 家は、戦災に遭っていた。彼は、あるセメント会社に職を得て神戸に住んだ。その後、焦土化した東京の工場に移り、日々の生活のため奮闘しなければならなかった。