西城八十(やそ)は、日本では珍しく社会的、商業的に大成功した詩人である。
当時も今も西城八十の詩集を読む人は稀だが、童謡と歌謡曲の作詞で多くのヒット作を連発して、歌謡界の大御所的存在となった。
(童謡:「かなりあ」、「赤い鳥」、「お月さん」「肩たたき」、「まりと殿様」。
歌謡曲:「誰か故郷を想わざる」、「蘇州夜曲」、「青い山脈」、「ゲイシャ・ワルツ」、「この世の花」、「娘船頭さん」、「王将」等々)
これ以上説明するのは面倒なのでwikipedia先生に譲る。
けれども、童謡や歌謡曲で西城八十の詩人としての真価を計るのは難しい。
例えば、沢山の自作歌謡曲の一つに「サーカスの唄」というのがある。
旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカスぐらし
とんぼがえりで 今年も暮れて
知らぬ他国の 花を見た
この歌詞一つ取っても、現代の読者に説明するのはどれほど困難か。
仮に、この歌詞を私の娘に見せたとする。真っ先に聞いてくるのは「つばくろって何?」だろう。(念のため、燕のことだ。)あるいは「他国って?海外公演に行ったの?」かも知れない。
だが、それよりも理解が難しいのは、時代背景そのもの、あるいは最大公約数的な当時の人々の心情だろう。この国の長い歴史における民衆の貧困、悲哀、哀感が、64東京オリンピックを境目として消えていった。大衆文化史的に、巨大なエクスティンクション(種の絶滅)と言える。
従って、私の娘の根源的疑問は解消されない。「何でサーカスが寂しいの?」
現在私は、昭和34年を背景とした長編小説を書いているが、この「時代の心情」あるいは「民心」を表現するのが一番難しい。正直、いくら資料を読み漁っても分からない部分が残る。
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もちろん、分かりやすい部分もある。
<西城八十作品集抜粋>
「そうだその意気(国民総意の歌)」(1941年)
「みんな揃って翼賛だ」(1941年)
「総進軍の鐘は鳴る」(1941年)
「打倒米英」(1942年)
「壮烈特別攻撃隊」(1942年)
「陥としたぞシンガポール」(1942年)
「空の軍神」(1942年)
「若鷲の歌(予科練の歌)」(1943年)
<1945年終戦>
「青い山脈」(1949年)
<歌詞2番>
古い上衣よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの 旅の乙女に
鳥も啼く
(小説「青い山脈」解説抜粋)
<1945年に太平洋戦争が終り、日本が戦争中の軍国主義から民主主義の世の中になった時期を背景に、日本の一地方を舞台に高等女学校の生徒らの男女交際などを通して当時の社会と人間を明るくユーモラスに描いた作品である。>
この思想的無節操を、後世の安全な立場から批判するつもりはない。後出しジャンケンなら誰でも勝てる。
「一億総懺悔」という流行語が記録されているように、当時はまあ、芸能界は言うに及ばす、メディアも朝日新聞からして大体こんなようなものだったらしい。
ぶっちゃけヒトは食わねば飢えるので、大抵の事はやらかすし、大抵の事には目をつむる。
我ながら実も蓋もない言いようだが、ただひとつ。
私には、西城八十が詩人とは思えない。
(2024/02/10)