#37 雪の集落 ~ 実家じまい | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

先日、実家じまいの関係でまた郷里に戻った。

詳しくはこちら → #3 空き家、限界集落、ゴーストタウン ~ 落日の光景)

大雪の降った後のようで、交通に難渋した。

私の郷里は結構雪が多い土地だが、かと言って「雪国」などという風情はない。

見渡す限りの田圃に、集落があちらこちらと散らばっている。

↓↓ まあ、こんな感じだ。

 

 

普段なら、旧友AがJRの最寄り駅(と言ってもそこから実家まで、バスで30分+徒歩10分かかる)まで車で迎えに来てくれるのだが、今回は私の都合でバスを利用した。

↓↓ まあ、こんな感じのバスが、こんな感じの集落を走り抜けていく。

 

 

ちなみに、このバス会社は長年赤字続きで運行に嫌気がさしているところを、自治体が毎年拝み倒して助成金を積み、それで今日も、僅かばかりの爺さん婆さんを乗せてイヤイヤ走っている。

近年、全国津々浦々で耳にする話であり、もうニュースのネタにもならない。

 

手短かに言えば、毎度おなじみ「少子高齢化による地方の衰退」話なのだが、私の実家がある集落もこれに当てはまる。人口180人の準限界集落で、60歳以上の高齢者が過半を占める。これも数年前の統計で、現在では更に高齢者比率が急上昇している筈だ。

統計学は非情な学問で、飾り立てた理念も、地元民の希望も、政治家や官僚のぶち上げる胡散臭いプロジェクトも、ジュッパ・ヒトカラゲに一掃する。計算上、私の「ふるさと」は後10年程度で廃村となるだろう。

実家に立ち寄る度、いつも湧いてくる想いがある。
後10年。この集落の亡びるのが先か、私の死ぬのが先か。

 

 

集落を歩くと、一見小奇麗な住居なのにずっと無住とか、あるいは↓↓こういう堂々たる廃屋が目につく。壁が一面蔦に覆われている。

 

   

 

 

やがて柱が腐り、屋根が落ちる。落ちた後は、一気に自然に帰っていく。

 

   

 
にもかかわらず、現実の「故郷の廃家」は、他府県居住者である私に出費を強い続ける。
例えば、↓↓古い集落特有の、この厄介な旗竿地に苦心惨憺して重機を入れ、ひとまず↓↓こう
 
           
 
いう状態にするまで既に7桁近い費用がかかった。これでまだ全体の1/5の敷地だ。この先のことを考えると頭が痛いどころの話ではない。
 
 
この家の座敷に、今も3代の当主の写真が掲げてある。
私から見れば、曾祖父、祖父、父の遺影だ。
この実家じまいのドタバタ劇の最初の頃、私は十数年ぶりにこの家に立ち入り、この3つの肖像写真を見上げた時、何とも言えない衝動にかられ、どうしたかと言うと吹き出した。
「あんたらなあ・・・」という言葉が最初に口をついたが、あの時は、隣に旧友Aが立っていたため、残りをぐっと喉の奥に飲み込んだ。続いて吐き出す筈だった言葉は、(残すなら、もうちっとまともなものを残せよな)というものだった。もっとも、Aも勘の良い男で、かつ私と実家との芳しからぬ関係を熟知していたから、釣られてゲラゲラ笑いだした。笑いながら、「罰当たりな奴だ」と勘良く言った。
 
今回は一人で訪れたので、帰路も隣の集落までトコトコ歩き、バスに乗った。
乗客は私ひとりだった。
 
                          (2024.01.30)