詩や文学に何の関心も持たない人には苦痛かも知れないが、委細構わず、伊藤静雄の「水中花」全文を記す。
今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
伊藤静雄は結核により46歳で死んだ。
大阪府下の中学や高校の教師、篤実な地方公務員として生涯を終えた。
フランツ・カフカとその社会的履歴が瓜二つで、俗っぽい表現をするなら、その地道な渡世と詩人の魂との乖離が凄まじい。
詩人の内面はしばしば危い。
外界、世界、実社会と、自らのガラス細工のような感性との綱渡り。バランスを崩したり、現実があまりに堪えがたいものとなったとき、詩人は悲鳴を上げる。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花
すべてのものは吾にむかひて死ねといふ
そのような悲鳴が昇華されて絶唱になる、と私は思う。
善き夫、善き父親、善き教師であった詩人は、この3つの役割を恙なくこなして逝った。
けれども、素顔と社会的お面の乖離という点から見れば、私を含め大抵の人間が当て嵌まる。幼い子供は別として、いわゆる社会人であればかなりの人がこのような二面性を備えている筈だ。
では、我々と伊藤静雄は何が違うのか?
伊藤は魂を隠そうとはしなかった。
地方公務員に許された時間をこつこつと使い、限りなく美しい言葉を紡ぐ事によって、魂の底まで露にして生きた。
一方我々の少なからぬ者は、魂どころか素顔さえ恥じながら生きている。
(2023.11.15)