娘からLINEメッセージが来て、今週末から旅行で沖縄へ行くと言ってきた。
子供の頃はあまり旅行を喜ばない子だったので、この変化を好ましく思った。
パウル・ツェランだか誰だったかもう忘れたが、確かこんな詩があった。
颯爽と往け、巡礼者、風も日差しもお前の味方、
悠然と進め、巡礼者、運命も聖クリストフォロも、
みんなお前の味方だから
ひとりっ子であることから、娘は幼い頃から孤独を意識する子供のように見えた。
(私には一緒にゲームして遊んだりする兄弟姉妹がいない)というような感覚だったのだろう。
詳しく話すと長くなるから手短かに言うが、孤独と言う概念には2種類ある。
(1)一つは「自由」と同義である孤独。英語でいうsolitude(いっそ「独立独歩」という方が近い)。
例えば、娘が一人で進路を決定し、一人で就職先を決めた時の(これで大丈夫かなあ?)という不安。一人で住居を決定するときの不安。あるいは将来、どこぞの男が何らかの誘いを持ち掛けてきた時に、一人で諾否を決定する不安。
これは日本語の「孤独」の定義に当てはまらない。言わば、自由人としての市民税と呼ぶべきものだろう。
(2)もう一つは、辛くて苦しい孤独。いわゆるlonliness。日本語の「孤独」はこれに合致する。
Lonliness は、何よりもまず喪失感、欠落感に起因する。家族や親しい人との死別、離別などによる感情面の辛さと言えばいいか。
次に孤立・隔絶感。一定期間、順調に持続させてきた何らかの生活基盤であるフレームワーク(事業、家庭、職場、等)が崩壊することによる社会的孤立。
三番目に、様々な理由・原因による「自己否定」。自己否定は他者との共感を不可能にするので、つまるところ、孤立・隔絶感に行きつく。いわゆる「群衆の中の孤独」と呼ばれる概念もこれにあたる。
何であれ、このカテゴリーのいずれの要素も、今の娘には当て嵌まらない。
だから、ここで彼女に言いたいことは実に簡単なことだ。
楽しめ。w
*
さて、私。
実質的には独居老人のカテゴリーに入る。住んでいる所がいささか不便なベッドタウンなので、週に一度は車で食料調達に出る。夕刻など道は狭いわ薄暗いわで、運転にはかなり気を遣う。
先日の夜、買い物の帰路、車窓から黄色い大きな月が見えた。
ウィンドウを少し下ろすと、心地よい夜風が吹き込んできた。
遠くの夕闇の中にぼんやり浮かぶ私鉄の踏切が、遮断機を下ろし、カンカンと信号を鳴らす。
実に長閑で平和な町だ。しかし、30年近く住み続けた町でありながら、私はその時思った。
(オレは、一体こんなとこで何やってんだか・・・)
この思いは、上述の孤独(lonliness)の大部分の要素を含んでいるところが、我ながら苦々しい。
若者の孤独は、先の見えぬ蓋然性に起因する。
老人の孤独は、先の知れた必然性に起因する。
(2023.11.03)