#12 娘の孤独、私の孤独 | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

  

 

娘からLINEメッセージが来て、今週末から旅行で沖縄へ行くと言ってきた。

子供の頃はあまり旅行を喜ばない子だったので、この変化を好ましく思った。

パウル・ツェランだか誰だったかもう忘れたが、確かこんな詩があった。

颯爽と往け、巡礼者、風も日差しもお前の味方、

悠然と進め、巡礼者、運命も聖クリストフォロも、

みんなお前の味方だから

ひとりっ子であることから、娘は幼い頃から孤独を意識する子供のように見えた。

(私には一緒にゲームして遊んだりする兄弟姉妹がいない)というような感覚だったのだろう。

 

詳しく話すと長くなるから手短かに言うが、孤独と言う概念には2種類ある。

(1)一つは「自由」と同義である孤独。英語でいうsolitude(いっそ「独立独歩」という方が近い)。

例えば、娘が一人で進路を決定し、一人で就職先を決めた時の(これで大丈夫かなあ?)という不安。一人で住居を決定するときの不安。あるいは将来、どこぞの男が何らかの誘いを持ち掛けてきた時に、一人で諾否を決定する不安。

これは日本語の「孤独」の定義に当てはまらない。言わば、自由人としての市民税と呼ぶべきものだろう。

 

(2)もう一つは、辛くて苦しい孤独。いわゆるlonliness。日本語の「孤独」はこれに合致する。

Lonliness は、何よりもまず喪失感、欠落感に起因する。家族や親しい人との死別、離別などによる感情面の辛さと言えばいいか。

次に孤立・隔絶感。一定期間、順調に持続させてきた何らかの生活基盤であるフレームワーク(事業、家庭、職場、等)が崩壊することによる社会的孤立。

三番目に、様々な理由・原因による「自己否定」。自己否定は他者との共感を不可能にするので、つまるところ、孤立・隔絶感に行きつく。いわゆる「群衆の中の孤独」と呼ばれる概念もこれにあたる。

 

何であれ、このカテゴリーのいずれの要素も、今の娘には当て嵌まらない。

だから、ここで彼女に言いたいことは実に簡単なことだ。

楽しめ。w

 

 

 

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さて、私。

実質的には独居老人のカテゴリーに入る。住んでいる所がいささか不便なベッドタウンなので、週に一度は車で食料調達に出る。夕刻など道は狭いわ薄暗いわで、運転にはかなり気を遣う。

先日の夜、買い物の帰路、車窓から黄色い大きな月が見えた。

ウィンドウを少し下ろすと、心地よい夜風が吹き込んできた。

遠くの夕闇の中にぼんやり浮かぶ私鉄の踏切が、遮断機を下ろし、カンカンと信号を鳴らす。

実に長閑で平和な町だ。しかし、30年近く住み続けた町でありながら、私はその時思った。

(オレは、一体こんなとこで何やってんだか・・・)

この思いは、上述の孤独(lonliness)の大部分の要素を含んでいるところが、我ながら苦々しい。

 

若者の孤独は、先の見えぬ蓋然性に起因する。

老人の孤独は、先の知れた必然性に起因する。

 

                                                                 (2023.11.03)

 

 

 

     

 

       

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