唐詩選巻六に「勧酒」という詩がある。
勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵)
満酌不須辞 (満酌辞するを須ず)
花発多風雨 (花発(ひら)きて風雨多し)
人生足別離 (人生別離足る)
この五言絶句の下二句を井伏鱒二が次のように訳して、一躍流行語になった。
花発多風雨 (花に嵐のたとえもあるぞ)
人生足別離 (さよならだけが人生だ)
この人生と別れのモチーフは、古くは「遺教経」で「会者定離」と表現されているし、短歌、俳句はもちろん、近代になっても例えば島崎藤村の「惜別の唄」や戦後の流行歌(逢うは別れの始めとは・・・)など日本の詩歌の至る所に見られる。
過去の殆どの歴史において、一旦離れた者同士が再会できる確率は非常に低かった。別離は大抵の場合永久の別れであり、各自の心に重く深い悲愁の傷痕を刻むものだったと言える。そうでなければ、古今東西にわたってこれほど多くの別れの歌や詩が残されている理由がない。
翻って、SNS時代と言われる今日ではどうか?
LINE、インスタグラム、ツイッター、youtube、facebook, 等々で手軽に再現される動画や言葉。これで、人々は別れの辛さからめでたく解放されたか?
答えは定量的にイエスだ。100中99人が解放されただろう。その99人は、0と1が作り出す軽薄な言葉や上辺だけの画像・映像に満足するだろう。
とは言え、各種のデバイスが作り出すデジタル文字や画像が、人の孤独の本質を癒し得る、などと無邪気に信じられるのは、幼児性と同義である。
もしあなたが100人中の1人の「寂しがり屋」であって、あなたの親友あるいはパートナーと「遠距離関係」になったとする。その時、 「話そうと思えばいつでも話せるし、顔を見たいと思えばいつでも見れる」などと、空気よりも軽い口調で慰められたとしたら、そもそも、その関係自体が最初からあなたの幻想である。
人と人の関係は、植物とその環境に例えられる。木や花は、常に適切な日射量、雨量、風、土壌、肥料があってこそ木や花であり得る。直接的な心の交流、様々な人生の局面で傍にいることの大事さ)、----- そういう要素が希薄になれば、花も木も徐々に萎れ、枯れていく。
その状態を、昔の人は正確に諺で表現している。
「去る者は日々に疎し」
親子、兄弟であっても「日々に疎し」になるのは冷厳たる事実だ。
物理的に接触機会が消滅すると、喜怒哀楽の情感を共有できなくなり、次第に心のつながりも歳月に希釈されていく。本来、別離とはそういう哀しさ、辛さを言うのだ。
あなたがまだ独身の若い人でありながら、この諺の正しさを直観的に理解できるのであれば、その感性の強さを獲得する経過において、何らかの痛みを味わってきた証左と思われる。その1%のマイノリティの痛みを癒せるのは、決してSNS機器ではないだろう。"Stand by me" と言うように、いつも近くにいてくれる同類の友、あるいはパートナーを探すしか術はない。