我が家の一人娘でひとりっ子が就職のために家を離れた時、私は空の巣症候群に陥った。
空の巣症候群、Empty Nest Syndrome --- 実に見事な命名ではないか。親の不安定な精神状態が6文字で一目瞭然に説明できる。
例によって解説が面倒なので「百科事典マイペディア」の解説を拝借すると、こうなる。
<中高年の主婦が陥りやすい心身の不安定な状態。子供たちが進学や就職,結婚などで巣立ってゆき,夫は仕事が忙しくて不在がちで,ひとり家庭に取り残された主婦が,空虚感や不安感,抑うつ感などにとらわれて心身の不調を訴える状態をいう。>
娘が一人暮らしを始めてから、私がどのようにうろたえ、どのような醜態を示したか、という詳細は一切省略する。後で友人・知人に、あの時はあんな風だったではないか、とからかわれてもシラを切り通し、あわよくば無かったことにするつもりだ。
ただ、通常の抑鬱状態が段々本格的な鬱病の特徴を見せ始めて、私はさすがに慌てた。「中高年の主婦が陥りやすい」と書いてあるのに、なぜ選りにもよってこの俺がこんなことに?!
私はまず旧友のA、B二人にSOSのメールを出した。共に娘がいる。どのようにしてこの辛さを克服したのか聞きたいと思った。大真面目だった。
ところが、Aの返答は無味乾燥も甚だしかった。「あの頃は仕事が忙しい頃だったし、息子もいたし・・・」、空の巣症候群など起きなかったと言う。
次にBに聞いた。しかしBは既に孫が大学受験の段階にあり、空の巣症候群は2周ほど周回遅れ、私に問われて遥か遠くを眺めるまなざしになった。
後日、私は二人に礼状メールを出し、末尾にこう書き添えた。
「お前らの話はクソの役にも立たんわ!」
逆切れされた当人達こそいい迷惑だったろう。
一方で、抑鬱症状はどんどんひどくなり、窮した私は姉にまでSOSを発した。助言はもらったが、姉の空の巣症候群へのまなざしはBよりもなお遠く、月にまで届くかと思われた。
ここから、起承転結の「転」に入るだろうと予想した人がいたら、外れだ。
その後の経過は単にグダグダと時だけが過ぎ、語るエピソードも特にない。現実は、なかなかエッセイのタネになるようには動いてくれない。
私の空の巣症候群もそのままだ。
いまだに娘にメールで「週に一回は帰って来い」とか、「毎日、今日は何があったか報告しろ」とか無理なことを書いて黙殺されている。
また、ここらでそろそろ、例の上から目線で何やら偉そうな、起承転結の「結」が出るかと先読みした方、それも外れだ。
逆に、Aが私に言い放った辛辣な教訓を、日々苦々しく噛みしめている。
「大体、お前は(己をわきまえず、世界に自由に羽ばたけだの、面白い人生を生きろだのと)カッコつけて手放したこと自体が愚かだ。息子は出しても娘は手許に置け、という世間智を知らんのか?」
知らなかったんだよ、本当に。
そういうことは先に言ってくれ。