中部篇 カイザリヤの最終回のご案内です。

 

前回の第2弾カイザリヤでご案内した戦車競技場を抜けて城門を通ると、遺跡と現在のレストランやショップのあるところに着きます。

この辺り、ローマ時代も商業地区だった場所で、港があったところです。

 

Wikimediaより

 

この港を作ったのは、カイザリヤの初回のブログでも紹介しました、建築を得意としていたヘロデ大王です。

防波堤を築くために巨大な石のブロックを海に沈め港を作りました。

その大きさは、長さ15m、幅3.3m、深さ2.7mもありました。

 

新約聖書を読むと、パウロはこの港から故郷であるタルソスに帰り(使徒言行録 9:30)、第2回伝道の際はエフェソスからカイザリヤに船で到着しエルサレムへ(使徒言行録18:22)、第3回伝道を終えてエルサレムに来る際にも船で到着(使徒言行録21:8)し、またローマに向けて出帆(使徒言行録27:2)したことが書かれています。


そして、パウロはローマに出帆する前、2年間(使徒言行録24:27)もここで捕えられていました。

パウロとカイザリヤは切っても切れない場所ですね。

 

紀元後130年に起こったとされる地震でヘロデ大王の作った港は、海に転落してしまいました。

今ではだいぶ埋め立てられてしまっていて、2千年前船の乗り降りをした乗船場は、今の海岸線よりもだいぶ内側になってしまっています。

 

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手前の部分が、乗船場があったところで芝生のところは海でした。

奥には19世紀のオスマントルコ時代に建てられたモスクのミナレット(尖塔)が見えます。

 

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海側だったところから見ると港に降りていく階段などが見られます。

 

カイザリヤの海からは、いろいろなものが発見されています。

最近では2021年に古代ローマ時代(3世紀ころ)の指輪と金貨が、2018年には十字軍がこの地にやってきたころの金貨とイヤリング、2015年には千年ほど前のイスラム支配時代の金貨がなんと2千枚!も発見されています。

 

夏場に訪れるとかなり暑いカイザリヤですが、目の前に海があり、こんなに金貨が見つかったことを聞くと、地中海に入って涼をとる目的なのか金貨を探す目的なのかわからないですが、海に入りたくなってしまいます。

 

この辺りには、ショップやレストランもあり、遺跡の見学の後、アンティークの買い物や食事もすることが可能です。

レストランは野菜と乳清を中心に出すレストランや、イスラエルの食事規定を守っていない、イカやエビなどを使ったシーフードを食べさせてくれるレストランもあります。

 

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焼きたてのフォカッチャは美味でした。

 

港の後と、食事を楽しんだ後は出口に向かっていきます。

この港跡と出口の間にはまた別の空間が広がっています。

 

カイザリヤは十字軍の町としても栄えました。

イスラム教徒に取られたエルサレムを奪回すべく、十字軍はアッコーやカイザリヤに城塞を築きました。

十字軍の町は四方を城壁と濠でめぐらされています。

城壁の高さは4~6mあって、城塞の東側の壁は南北に650m、東西に275mあり、約90,000㎡の広さがあります。

 

 

 

十字軍要塞の遺跡の内側にはこのようなつくりになっています。

十字軍時代特有のつくりで、特に天井に特徴があります。

このアーチで屋根の石の重さを分散して受け止められるようになっています。

 

攻め込む場合は、このゲートから入ると右に曲がって城壁内に入るように作られているため、右手に剣を持っていると壁が邪魔で非常に攻めにくいのですが、守る側は剣を持っている右側のスペースが空いているため攻撃しやすいつくりでした。

 

正面(写真中央)に光の入ってきている直線の隙間がありますが、これは外から攻めてくる敵に向かって矢を射やすく開けられた窓です。

内側には窓のところに左右に角度が作られていて、右に左に矢を射ることができます。

日本のお城でも銃眼(じゅうがん)とか、狭間(はざま)と呼ばれる穴が、城壁などにありましたが、その原型が、この時代すでに整えられていました。

外側からは細い隙間でしかないので、真正面からよほど正確に射ないと中に矢は届かないように作られています。

 

このゲートを抜けたところが出口で、バスが待っています。

 

3回に渡ったカイザリヤのご案内はいかがでしたでしょうか?

今回ご案内していない内容が、まだいくつもあります。

イスラエルの戦争状態がおさまり、行くことができるようになりましたら、ご案内したいと思います。