今回は、ベテシャンの遺跡をご案内いたします。ベテシャンは、ガリラヤ湖からヨルダン渓谷沿いに約20km南下したところにある、非常に古い遺跡で、すでに紀元前4000年ころには人が住み始めていたようです。

正式にはベイト・シェアン(シェアンの家)と呼ばれます。

 

 

ベテシャンは、海岸地方(上記地図のハイファ)からヨルダン渓谷へ抜ける東西の道と、ガリラヤ湖から下る南北の道が交わるポイントにあるため、古代より重要な場所でした。なんとエジプトの新王国時代(紀元前16-11世紀)のファラオたちは、ここの重要性に気がつき、要塞を築いて周囲一帯を治めていました。

 

紀元前12世紀になると、東地中海沿岸の諸民族はギリシア地方からやってきた「海の民」によって、次々と征服されてゆきます。彼らは当時の最新技術であった鉄器を持っていたため大変に強く、いわば向かうところ敵なしの状況でした。

聖書の中ではペリシテ人と呼ばれます。

 

ペリシテ軍はイスラエルと戦い、イスラエル兵はペリシテ軍の前から逃げ去り、傷ついた兵士たちがギルボア山上で倒れた。 ペリシテ軍はサウルとその息子たちに迫り、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを討った。 サウルに対する攻撃も激しくなり、射手たちがサウルを見つけ、サウルは彼らによって深手を負った。 サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。 (中略)

翌日、戦死者からはぎ取ろうとやって来たペリシテ軍は、サウルとその三人の息子がギルボア山上に倒れているのを見つけた。 彼らはサウルの首を切り落とし、武具を奪った。ペリシテ全土に使者が送られ、彼らの偶像の神殿と民に戦勝が伝えられた。 彼らはサウルの武具をアシュトレト神殿に納め、その遺体をベト・シャンの城壁にさらした。

(サムエル記上31章1-10)

戦場となったギルボア山はベテシャンの南側に広がる長い山で、ベテシャンとは目と鼻の先にあります。サウル王とその息子たち3人は、このベテシャンの城壁に貼り付けられ、さらしものにされたわけです。

数日後、サウルと最愛の友ヨナタンの死を知ったダビデは、有名な「弓の歌」を詠いますが、その中には「ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ、お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな。」(サムエル記下1章21節)とあり、そのせいかどうか分かりませんが、ギルボア山は近年まではげ山でした。

個人的なことですが、私はイスラエルに滞在中は、「ヨナタン」という愛称で呼ばれていました。イスラエルで学び始めたころ、ベテシャン近くのキブツにいたため、ギルボア山とベテシャンは私の名前の由来となった人物に関係する場所として、特別な思い入れがありました。

その後ベテシャンは、紀元前732年にアッシリア王ティグラト・ピレセル3世がイスラエルまで遠征し、ガリラヤの諸都市を征服した際に破壊され、その後長い間忘れられた場所となりました。

状況が変わったのは、ヘレニズム時代(紀元前4〜1世紀)に入ってからです。ベテシャンが再占領されて、スキトポリスと呼ばれるようになります。「スキタイ人の都市」を意味し、退役軍人としてそこに定住したスキタイ人(中央アジアから黒海地方へ来た遊牧民)の傭兵にちなんで名付けられたようです。

紀元前63年、ローマの将軍ポンペイウスがここを征服したあと、デカポリス(十の町)の町として急速に発展し、ローマ風の町に生まれ変わりました。

(「デカポリス」については、ジェラシの項を御覧ください。https://ameblo.jp/temasatravel/entry-12733620631.html?frm=theme)

デカポリスの町の中では、唯一ヨルダン川西側の町で、大変栄えていました。遺跡の北側には小高い他とはハッキリと区別される丘(テル)があり、ここはヘレニズム時代以前の古代のベテシャン遺跡でした。しかしその頂上部分は狭くて、その上にローマ風の町を築くことはできないので、丘の南側に広がるスロープに町が拡張されていきました。

 

 

(手前は列柱街道その向こう側にテル)

都市建設が計画的に進められ、ローマ風の町に必要な大通り、劇場、神殿、商業施設、戦車競技場などが次々と建設されていきました。その後のビザンチン時代(紀元後4-7世紀)にはベテシャンはさらに繁栄し、現在ベテシャンの遺跡で見ることができるのは、殆どがこの時代に建てられたものです。

北側にはハロデ川が流れ、温暖で緑豊かな町でした。たくさんのぶどうが栽培されていましたので、酒の神ディオニソスとも関連付けられ、その乳母のニュサという名前が、スキトポリスの名前に付け加えられていた程でした。

またユダヤ教の口伝律法タルムードの中では、「もしエデンの園がイスラエルにあるなら、ベテシャンはその入口である」と例えられたほどでした。

遺跡の入り口には、当時の遺跡を再現した縮小モデルが置かれています。左上の半円形の建物が劇場、そこから斜め上に伸びる道が町の中心となる、カルド通りです。

 

 

列柱街道には屋根がかけられていたことが分かります。手前の楕円形の構造物は戦車競技場。画面中央付近の中が空いた柱で囲まれた建物はアゴラ(広場)で、人が集まっては、商売をやったり、政治的な議論をしたりした場所です。

この模型で全体像を把握したら、実際の遺跡へ出発。まずは劇場から。

 

 

光線の関係で分かりにくいですが、劇場は基本的に黒い玄武岩で作られ(観客席上の露出した2階部分)、化粧石として白い石灰岩や大理石が使われました。当時のローマの町では劇場では観劇だけでなく、猛獣と人間を戦わせることもありました。半円形の部分がその舞台となるのですが、猛獣が観客に飛びかかって来ないように、通常は観客席を1.5mほど高く作ります。

しかし、イスラエルではこれは禁止。そのため、半円形の部分と観客席には高低差がありません。観客席は3階まであって、全部で7,000人を収容したそうです。

 

 

左側の柱の向こう側は歩行者用、真ん中の黒い部分が車道、とハッキリ別れていました。歩行者は柱に支えられた屋根の下を行き来しました。道路は真ん中が盛り上がり、左右に緩やかに下るようになっていて、雨が降っても水たまりができません。道路の黒い石は玄武岩で、白い石(石灰岩)より硬いので、より耐久性があったようです。

道路には何十年もの間に刻まれた轍が残っています。

 

 

浴場の写真ですが、これだけ見ても何?という感じですよね。

この短い柱は床を支えるためのもので、この間を熱湯が流れていました。床と壁を温め、そこに水をまいて湿式のサウナとして利用しました。熱に耐えられるよう、柱はよく見ると薄いレンガを積み上げています。壁にはパイプが張り巡らされ、壁も暖かかったとか。炉から出てくる煙の影響で、壁が黒くなっています。

 

 

町の一角にある公衆トイレ。壁から突き出た石と石の間にお尻をのせて用を足します。その下は常に水が流れていました。終わったあとは、手前にある細い水路を流れる水で手を洗います。この時代にオール水洗は、すごいですね。

 

 

紀元749年、この地方を襲った大地震で町は倒壊します。戦争で町が壊された場合は、町は火で焼かれ(黒くすすが残る)倒された壁や柱はあちこちを向くようですが、地震の場合は、同じ方向に倒れるのだそうです。上の写真左側には、数本の柱が同じ方向に倒れています。


このあと、ベテシャンは歴史から忘れ去られて20世紀に至り、ペンシルベニア大学により発掘が進められます。

 

ベテシャンは紀元後数世紀の間大きく繁栄しますが、地震で町は瞬時に廃墟へ。そのため、当時の様子を封じ込めた状態で現代まで残されることになり、当時の遺跡が良い状態で発掘され、生活感が生々しく伝わる遺跡です。

「天国の入り口」に、あなたも一度行って見ませんか?