ヨルダンの第5弾は、ジェラシの遺跡についてご紹介いたします。

ジェラシはヨルダン国の首都アンマンの北、約50kmほどのところに位置し、道も整備されているのでバスなどで1時間もあれば着きます。ヨルダン観光では、南のペトラと並んで観光の目玉となる遺跡です。
付近一帯は、旧約聖書の中では”ギレアデ”と呼ばれる地域で、木が生い茂る緑豊かな場所として記されています。ジェラシの町のすぐ南には、ヤコブが天使と組打ちしたことで有名なヤボク川が流れています。

 

(ヤボク川の流れ)

 

ジェラシの遺跡では、ローマ時代の遺跡が非常に状態良く保存されていて、当時の町の様子を彷彿とさせてくれます。南北十字に交差する列柱街道、巨大な神殿、複数の劇場、競技場、浴場などなど、当時のローマの街に必要なものがすべて備えられています。

でもなぜここに、このように立派な町が築かれたのでしょうか?

 

当時ローマ帝国は支配下の“シリア地方”(現在のシリア国に加えて、イスラエル・ヨルダンの北部を含む地域)に「デカポリス」と呼ばれる10のギリシヤ風の都市連合を作り上げていました。

もともとはアレクサンダー大王の後継者の一人セレウコスが、その領土内のシリア地方に建てたギリシャ風の町々で、多くのギリシヤ人が入植していました。

 

紀元前63年、ポンペイウス率いるローマ軍がこの地を征服すると、ローマ風に都市づくりされるようになり、免税の特権が与えられ、10都市間で同盟を結ぶようになりました。東の砂漠から侵入する遊牧民の防波堤として、しばしば反乱が起こったイスラエルに睨みをきかせ、南の有力なナバテヤ王国などとは同盟を結び、微妙なパワーバランスの上に成り立っていたこの地域の中で、ローマに忠実な都市群を持っておくことは、大変重要だったようです。

また、ローマの文明や文化がいかに素晴らしいか、周辺住民に示す役割もあったことでしょう。

 

 

ちなみにこの10都市とは、現在のシリア国内のダマスコ、現ヨルダン国内では、ラファナ、カナタ、ディオン、ガダラ(ウム・カイス),ペラ、ゲラサ(ジェラシ)、フィラデルフィヤ(アンマン)、イスラエル国内のヒッポス(ガリラヤ湖東岸)、スキトポリス(ベテシャン)のことです。

 

ジェラシ以外で、ガダラ(ウム・カイス)やスキトポリス(ベテシャン)で大規模に発掘が進められ、同じく大規模なローマ風の町が出現しています。またダマスコ旧市街には今でも、この当時の町づくりがはっきり残っています。回心後のサウルが滞在したユダの家があった『直線通り』は、町の東西を結ぶ真っ直ぐな道として今に至るまで残されています。

 

 

新約聖書の中には、このデカポリスに関連する記事が数カ所見られます。

 

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。(中略)その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。(マルコによる福音書5:20)

 

「湖の向こう側」はガリラヤ湖東岸のことを指します。一説にこの「ゲラサ人の地方」は、ジェラシがなまった言葉のことではないか、と言われています。

この物語の中で、汚れた霊が二千匹の豚の中に入って、ガリラヤ湖になだれ込み次々とおぼれ死んだことが記されています。ユダヤ人が絶対に飼わない豚がいた土地ですから、ガリラヤ湖の東側はギリシャ・ローマ文化の中で生きる人々の場所だったことが分かります。

 

こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。(マタイによる福音書4:25)

 

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。(マルコによる福音書7:31)

 

この様に、イエス様の元に集まる群衆の中にはデカポリスから来た人々(ユダヤ人でない人)もたくさんいたでしょうし、ご自身もしばしばデカポリス地方へ足を延ばされたことが分かります。

 

さて遺跡の中をご紹介しましょう。

バスが大きな駐車場にとまり降車すると、お土産物屋街を通ってチケット売り場へ行く仕掛けになっています。ヨルダン人は、陽気に声をかけてきますが、驚くことに聞きもしないのにどこの国から来た人かをすぐに見分けて、日本人には「いらっしゃいませ」と言ったかと思うと、隣のイタリア人には「ボンジョールノ」なんて使い分けて声をかけています。

 

 

ハドリアヌスの凱旋門(上記地図の最南端)を抜け、戦車競技場の横の道を通りしばらく歩くとやっと城壁を抜けて町の中に入ります。ず目に入るのがフォーラムと呼ばれる楕円形の形をした広場(下の写真、右上の丘にはゼウス神殿)。160本の列柱で囲まれた広場で、南の門から入ってすぐのところにあり、周囲には商店が立ち並び、宗教儀式が行われ、人々が演説をする場でもありました。

その賑わいと喧騒をご想像ください。

 

 

その横には、見事に修復された劇場が立っています(写真下)。下の床の半円形の中心(下の写真の右下角付近)に立って声を出したり手をたたいたりすると、音がそのまま自分に反響してきます。当時の音響技術の高さが分かります。

 

 

フォーラムから北へ延びる列柱街道は、それは見事なものでした(写真下)。当時は列柱の左右の石段を登ると、屋根がかけられた歩道があり(柱はその屋根を支えるためのもの)、そこには数多くの商店が並び、道行く人々に物を売っていました。

通りには大きな石のブロックが敷き詰められ、今も石に刻まれた輪だちのあとが残っていて当時の賑わいを偲ばせてくれます。

 

下の写真は列柱街道真ん中付近にある建物ですが、これは水飲み場で“ニンフィウム”と呼ばれます。

この手前の低い壁の向こうは半円形のプールになっていて、近くの泉から引かれた水が満たされ溢れています。2階建ての壁のくぼみには、町の著名人や貢献者などの銅像が置かれていたようです。

ヨルダンは地中海性の気候に属しますが、4-10月の間は雨が全く降らず、暑い日が続きます。道行く人々がここで喉を潤し、泉がもたらす適度な湿気に人々はほっと息をついていたことでしょう。

 

 

最後にご紹介するのは、列柱街道から壮麗な門と階段を通って入るアルテミス神殿です。(下の写真)

 

神殿の大きさは120☓160mという大きなもので、その中心に写真の神殿がそびえています。

ここに来るとガイドが面白いものを見せてくれます。神殿にたつ円柱の一本の土台と柱の間の僅かなすき間にペンなど長いものを挟んでみると、それがわずかに上下に動くのです。

神殿の柱は柔構造になっていて、柱が風の影響でかすかに動くとのこと。石造りの建物なので、微動だにしないガッシリした建物と思いがちですが、現代の高層ビルにも通じる柔構造が取り入れられていたとは、ビックリです。

 

 

ジェラシでは、その後のビザンチン時代(紀元4-6世紀)に建てられた教会がたくさん発掘され、見事なモザイク画が見つかっていますが、今回のテーマと少しずれますので、今回はこの辺で。