内田 樹さんの「日本辺境論」を何度も読み直している。
その都度、着目する言葉の場所が変わるが、
今は、本著の第三章「機の思想」を読み返している。
二項対立的概念を「機」は消去する。
それを支えるのは、学ぶということ。
内田さんは言います。
‥学ぶ力とは、先駆的に知る力のことです。
自分にとってそれが死活的に重要であることを
いかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず
確信できる力のことです。
そして、この学習の態度は、
機‥即ち、即座に応答する態度、
私なりに解釈すると、
見ず知らずの人から、おはようございますと声を掛けられたら、
それが誰かを問う前に、旱魃をいれずおはようございますと返す力、
もっていえば、そこに利害を超えた瞬間的な挨拶の交わしが同時に行われることの態度、
これが大切なのだと思うわけです。
この瞬間芸のような時間の同一性、共有性が、
理屈ぬきを行われることに、
日本的なるものを見ようとする「機」の思想について、
もう少し考えてみたいと思います。
脳の中にもう一人の自分がいる。
それを脳の中の神という言い方をした人もいる。
確かに、私を客観的に見るもう一人の自分が存在している気がする。
対話編。
そう、本当の他者との対話ではなく、
もう一人の自分と対話する。
そのことが、自分をより分りやすくする。
あるいは、さらに混迷の中に引きづり込まれる場合もある。
いずれにしても、
自分と対話する。
お前は、一体、誰だ?
コミュニケーションの不確定さに、
苛立つ自分を、
今日は冷静に見てみよう。
対話で。
それを脳の中の神という言い方をした人もいる。
確かに、私を客観的に見るもう一人の自分が存在している気がする。
対話編。
そう、本当の他者との対話ではなく、
もう一人の自分と対話する。
そのことが、自分をより分りやすくする。
あるいは、さらに混迷の中に引きづり込まれる場合もある。
いずれにしても、
自分と対話する。
お前は、一体、誰だ?
コミュニケーションの不確定さに、
苛立つ自分を、
今日は冷静に見てみよう。
対話で。
真夏ですね。急に。
で、夏の甲子園を目指した全国の高校野球地方予選が佳境に入っています。
私も高校球児の端くれとして、青春時代を過ごした経験からか、
この時期、妙に血が騒ぎます。
先日、用事があり、神奈川県予選会場となるある球場近くを通りかかることがありました。
普段は人気も疎らなその運動公園が人で埋まっていましたね。
さぞかし人気の高校が登場しているのかと思いきや、そうでもない。
それに肝心の野球そのものより、
野球の大会につきものの応援のグループのほうが活性化しているように思えました。
チアガールというのでしょうか?
そのコスチュームは、チームごとに嗜好をこらし、
実にに見事な応援を繰り広げている。
ブラスバンドの技術も高い。
かつての野球の応援といえば、
汗臭いガクラン姿の応援団員が、声を嗄らして応援指導する姿が一般的でした。
太鼓と手拍子のみ。
そう花の応援団という漫画がありましたが、そんな姿でしたね。
若い女子が寄り付く姿はあまりなかったように記憶していますが、
今やちょっとしたコンテストのように、スタンドはカラフルな女性で溢れています。
野球をする側も応援する側も、
確かに集団での活動ではあっても、
そこに個性を発揮しようとする努力が見て取れます。
今年の夏。
若者達は、どんな青春の物語の記憶を刻もうとしているのでしょうか‥。
で、夏の甲子園を目指した全国の高校野球地方予選が佳境に入っています。
私も高校球児の端くれとして、青春時代を過ごした経験からか、
この時期、妙に血が騒ぎます。
先日、用事があり、神奈川県予選会場となるある球場近くを通りかかることがありました。
普段は人気も疎らなその運動公園が人で埋まっていましたね。
さぞかし人気の高校が登場しているのかと思いきや、そうでもない。
それに肝心の野球そのものより、
野球の大会につきものの応援のグループのほうが活性化しているように思えました。
チアガールというのでしょうか?
そのコスチュームは、チームごとに嗜好をこらし、
実にに見事な応援を繰り広げている。
ブラスバンドの技術も高い。
かつての野球の応援といえば、
汗臭いガクラン姿の応援団員が、声を嗄らして応援指導する姿が一般的でした。
太鼓と手拍子のみ。
そう花の応援団という漫画がありましたが、そんな姿でしたね。
若い女子が寄り付く姿はあまりなかったように記憶していますが、
今やちょっとしたコンテストのように、スタンドはカラフルな女性で溢れています。
野球をする側も応援する側も、
確かに集団での活動ではあっても、
そこに個性を発揮しようとする努力が見て取れます。
今年の夏。
若者達は、どんな青春の物語の記憶を刻もうとしているのでしょうか‥。
最近の脳科学の研究で、
人間の脳には、主に前頭葉に、考えるためのデスクとでも呼べそうな、
ワーキングメモリーという機能があることが明らかになっている。
今、どんなことを考えようとしているのか?
今、どんな感情でモノゴトを捉えようとしているのか?
こんな考えること、感じることの刺激によって、
一時的に考える場所を作って処理するのが、
ワーキングメモリーなのだという。
人間の脳には、膨大な量の長期的な記憶、メモリーがあるらしい。
しかし、その記憶は、全てが論理的に整合されたデータベースになっているわけではなく、
様々な機能に分化されている脳の格納庫にこま切れになって蓄積されているらしい。
だから、ある種の問題提起がなされたとき、
それらの分散するデータの中から、
必要と思われる? 記憶情報を引き出し、
それを思考の参照データとして活用する。
しかし、引き出された記憶が、
果たして自分にとって客観的なデータか、
都合のよいデータかは分らない。
思考の手掛かりとしての機能としては重要だが、
それが今の自分にとって優位なものであるかどうかは分らない。
だからでしょうか?
考えるとは、不断に問い続けることだという名言もありましたが、
ワーキングメモリーに引っ張り出されたその情報が、
本当に但しいのか? 役に立つのか?
問い続けながら考えることが大切なのだということなのでしょう。
ワーキングメモリー活用方法を間違わないようにするノウハウが必要になるといえるのでしょうか?
人間の脳には、主に前頭葉に、考えるためのデスクとでも呼べそうな、
ワーキングメモリーという機能があることが明らかになっている。
今、どんなことを考えようとしているのか?
今、どんな感情でモノゴトを捉えようとしているのか?
こんな考えること、感じることの刺激によって、
一時的に考える場所を作って処理するのが、
ワーキングメモリーなのだという。
人間の脳には、膨大な量の長期的な記憶、メモリーがあるらしい。
しかし、その記憶は、全てが論理的に整合されたデータベースになっているわけではなく、
様々な機能に分化されている脳の格納庫にこま切れになって蓄積されているらしい。
だから、ある種の問題提起がなされたとき、
それらの分散するデータの中から、
必要と思われる? 記憶情報を引き出し、
それを思考の参照データとして活用する。
しかし、引き出された記憶が、
果たして自分にとって客観的なデータか、
都合のよいデータかは分らない。
思考の手掛かりとしての機能としては重要だが、
それが今の自分にとって優位なものであるかどうかは分らない。
だからでしょうか?
考えるとは、不断に問い続けることだという名言もありましたが、
ワーキングメモリーに引っ張り出されたその情報が、
本当に但しいのか? 役に立つのか?
問い続けながら考えることが大切なのだということなのでしょう。
ワーキングメモリー活用方法を間違わないようにするノウハウが必要になるといえるのでしょうか?
長い梅雨がようやく明けて、
さっそく猛暑の真夏日になりましたね。
そして海で波にさらわれる子供達のニュースも次々に登場しています。
痛ましい報道です。
‥‥
私も、小さい頃、一度だけ溺れかかった経験があります。
やんちゃな子供だったわけではなく、
どちらかというと静かな大人しい子供だった私は、
千葉の海である夏をすごしていました。
その日は、波が荒くもなく、
比較的穏やかな海水浴日和だつたと記憶しています。
浜辺からそう遠くない海で、
ゴムボートに乗って遊んでいて、
ボートから海に飛び込んだりして遊んでいました。
何度目かのダイビングをして、海上に顔を出した時、
付近にいるはずのボートがいきなり消失‥というより、
視界から消えていたのでした。(一瞬の小さなパニック)
あれれ? と思う間もなく、
予想以上の波が立て続けに私の頭の上を通過していく。
心の焦り!
泳ぐというより、もがくことに精一杯になり、
浮上する力に対向するような、強烈な引きの力で
海の底に向かって引き込まれていくのでしたね。
必死に浮上しようとしても、
身体が回転してしまって、上がっていかない。
やっとのことで波の上に顔を出し、
辺りを見回したとき、
随分と遠いところに、浜辺の静かな光景が見えました。
私が必死になっていることとは反対に、
のどかで、静かな浜辺の風景が、少しずつ遠ざかっているように見えましたね。
‥‥
これが溺れかかった時に見た風景でした。
自分が溺れているという自覚はなく、
何故か、現実が遠くに遠くに行こうとする、
不思議な浮遊感に見舞われていたと記憶しています。
気がついた時は、
ボートに引き上げられていたのですが‥。
自然と人間が調和する。
しかし、自然は、いつも人間にとって脅威でもある。
海水浴は大いに楽しみたいもの。
でも、どこかに警戒心は持っておきたいものです。
さっそく猛暑の真夏日になりましたね。
そして海で波にさらわれる子供達のニュースも次々に登場しています。
痛ましい報道です。
‥‥
私も、小さい頃、一度だけ溺れかかった経験があります。
やんちゃな子供だったわけではなく、
どちらかというと静かな大人しい子供だった私は、
千葉の海である夏をすごしていました。
その日は、波が荒くもなく、
比較的穏やかな海水浴日和だつたと記憶しています。
浜辺からそう遠くない海で、
ゴムボートに乗って遊んでいて、
ボートから海に飛び込んだりして遊んでいました。
何度目かのダイビングをして、海上に顔を出した時、
付近にいるはずのボートがいきなり消失‥というより、
視界から消えていたのでした。(一瞬の小さなパニック)
あれれ? と思う間もなく、
予想以上の波が立て続けに私の頭の上を通過していく。
心の焦り!
泳ぐというより、もがくことに精一杯になり、
浮上する力に対向するような、強烈な引きの力で
海の底に向かって引き込まれていくのでしたね。
必死に浮上しようとしても、
身体が回転してしまって、上がっていかない。
やっとのことで波の上に顔を出し、
辺りを見回したとき、
随分と遠いところに、浜辺の静かな光景が見えました。
私が必死になっていることとは反対に、
のどかで、静かな浜辺の風景が、少しずつ遠ざかっているように見えましたね。
‥‥
これが溺れかかった時に見た風景でした。
自分が溺れているという自覚はなく、
何故か、現実が遠くに遠くに行こうとする、
不思議な浮遊感に見舞われていたと記憶しています。
気がついた時は、
ボートに引き上げられていたのですが‥。
自然と人間が調和する。
しかし、自然は、いつも人間にとって脅威でもある。
海水浴は大いに楽しみたいもの。
でも、どこかに警戒心は持っておきたいものです。