写真は写真家の指先で、
時間を止める。
そこに投射された断面は、
写真家の意識と融合して、
既に過去となった「今、此処」を印画紙の中に定着させる。
その作品を観ていると、
「時間」は、絶えず流れていることを、より強く想起させられる。
‥止めるから、流れを感じる!
マリオ・ジャコメリの作品が、しばらく、私の記憶の中に定着していて、そこから、なかなか抜け出せない状態が続いている。
この写真家は、そのモノクロームの中に閉じ込めた「一瞬」を、何故に見るものの「時間」を意識させるのか‥‥そんな不思議さ。これを、私は、いつものように、「事実と推論」の境界線にある人間の生きる情念の迸りと考えてみた。
‥写真は、一瞬の事実を、作品の中に閉じ込める。
そして、強く、強く、推論を引き出そうと、誘惑するかのように‥。
‥‥
少し、この写真家の絵から抜け出すために、東京都美術館で開催されていたマリオ・ジャコメリ展に向け
特別寄稿を寄せていた辺見 庸さんの言葉を引用する。この引用で、しばらく、ジャコメリさんとは、距離を置くことにしよう。
めぐる〈生の時〉と〈死の時〉──蠱惑する“閾”の風景
ジャコメッリの芸術は深い蠱惑の森である。
薄明のなかを歩けども歩けども果てなく、終わりかと想うと、目眩く光がふりそそぎ、
新たな風景がもうはじまっている。
どこか「劫(こう)」にも似た、時間的継起の失せた記憶の葉叢にかこまれるうちに、
私たちの意識はいつしかめくりかえされて、
陶然と、あるいは慄然として立ちつくすほかなくなる。
人の記憶や幻想や惑乱をこのように結像させてみせることを、
たんに「写真」という言葉におきかえてよいものか、
私にはいささかのためらいがある。
(東京都写真美術館のホームページより一部原文のまま引用しました)
‥‥一体、私の見ている何が「事実」で、何処からが「推論」なのか?