切れない「切り札」、切らない「切り札」 | 考える道具を考える

考える道具を考える

The instrument which I think

 何故か‥‥「切り札」という言葉が頭から離れない。

 「切り札」といえば、トランプ。このカードを切れば、どのようなゲームも自分に有利に進めることができる。最後の決め技。

 しかし、「切り札」は、切らないほうがいい。核の脅威。戦略核という言い方は、「核」を「切り札」として、現在の交渉を優位に進める方法。核は使えないものだが、そこにボタンがある以上「使う」可能性は、いつも「在る」わけだ。

 野球のストッパーは「切り札」とは言わない。毎日登場するからだ。サッカーのスーパーサブも「切り札」とは言わない。ゲームの終盤に最も元気な体調で登場するからだ。

 使えない「切り札」と、使わない「切り札」があるように思っている。

 ‥‥

 そして、個人の能力の中に、「切り札」はあるのか? ということを考えている。自分が最も得意とする「スキル」。専門情報の蓄積。度重なる検証。

 それは、ものの見方、考え方に関する自分の価値観と言い換えていいかもしれない。価値観とは、「好き、嫌い」、「正しい、間違い」、「行動する、しない」、「笑う、悲しむ」‥‥いろいろな場面での、自分の考え方の根底にあるものといえますね。

 そして、自分に自信がない時は、他人の価値観を利用する場合もある。「あの人がこう言っているから、そうなんだろう。」

 これを他人の価値観で振り回されると言う、らしい。自分で判断するのではなく、他人の判断で行動を決意する。これは、ある意味、自分の中では、合理的な判断でもある。何故なら、その判断が間違っていたなら、それは、その人の判断が間違っていたので、自分ではないからだ、と言えるから。

 しかし、これは嘘。誰それの判断を利用した、という価値観が自分の中にある以上、それは自分の価値観なのだと自覚しなければならないわけだ。他人の価値観を参照する、影響を受ける‥‥それも、自分の価値観なのだからね。

 結局、自分の価値観しか存在しない、ということを自覚する。自分で判断し、自分で責任を持つ。だからこそ、自分の中に「切り札」を持っていたい。好きな絵画の歴史の知識でもいい、音楽でもいい、芝居でもいい、そしてたまには仕事のことでもいい‥。

 使わない「切り札」を持っていることは、とても素敵なことなんだ。