テレビ番組コメンテータの役割と限界 橋下弁護士頑張れ! | 考える道具を考える

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 光市母子殺害事件は、実に痛ましく悲惨であり、その被告の少年には憤怒の情を禁じえない。ほとんどの日本人がそう感じているでしょう。

 その裁判に、死刑廃止論者の一群の弁護団が便乗し、この忌まわしい事件の被告を弁護している。一般市民としての感情は、これらの「いかがわしい」弁護団に対しし憤りを隠せないのが本音でしょう。

 橋下弁護士が、こうした市民感情を代弁して、テレビ番組の中でこれらの弁護団に対して厳しく指弾したのは、感情的には大いに共感できる。しかし、いかな番組とはいえ、現在進行中の裁判に対するコメントとしては「少しやり過ぎ」だという指摘が多いのも事実だ。

 テレビ番組の様々な報道や事件に対する「識者のコメント」は、どこまでが許されるのか?

 もし、限度がより客観性を求める方向にいったら、番組で取り上げる報道や事件の「解説性」は薄れ、二次的波及効果は薄れるでしょうね。

 放送法という電波の公共性の縛りは大きい。もし、コメンテータに、コメントの客観性だけを求めたら、ほとんど面白みのない番組となり、そのコメンテータは降板でしょうね。

 テレビの影響力は、現在でも極めて大きい。討論番組などは、あのNHKですら、少々過激な発言をする人を何気なく配置するようになっていると感じるくらいだ。それが一つの趨勢なのだろうと思う。コメントの幅がどこまで可能なのか、それを明らかにするためにも、橋下弁護士には頑張って欲しいと思う。

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 なにはともあれ、橋下弁護士には、光市の事件を、こうした別の次元にもっていこうとする弁護団のたくらみに、強く反発していただきたいと思う。頑張れ橋下!